真田昌幸とはどんな人物だったか?徳川を撃退するも哀れな晩年

   

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真田昌幸とは、どんな人物だったのでしょうか?

 

2016年NHK大河ドラマ「真田丸」では、草刈正雄さんが熱演され、草刈さん自身初の写真集を出すなど、草刈昌幸ブームが巻き起こりましたよね。^^

 

おのおのがた~」という名言も生まれ、九度山で亡くなったあとは、昌幸ロスがやみませんでした。T-T

 

信濃のちいさな国衆のひとつであったにも関わらず、あの徳川家康にも果敢に立ち向かうなど、大名たちからも一目置かれていた、真田昌幸。

 

なぜ、真田昌幸は、一目置かれていたのでしょうか?

 

今回は、真田昌幸をとりあげ、その生涯を簡単にわかりやすくまとめてみましたので、ぜひ、ご覧くださいね。^^

 

真田昌幸の出自

(出典:goosle.whdnews.com

 

真田昌幸は、天文16年(1547年)、真田幸隆の三男として生まれました。幼名は源五郎

 

母は、恭雲院(きょううんいん)で、この女性は、海野棟綱や真田氏の家老だった河原隆正の妹になります。

 

恭雲院の子として、長男・真田信綱、次男・真田昌輝、弟に、四男・真田信尹、五男・金井高勝がいました。

昌幸は三男であり、真田家は、長男・信綱が継ぐ予定でした。ですので、昌幸は、真田家の家督を継ぐ権利は生まれた当初はなかったのです。

 

そして、山手殿を妻に迎えています。山手殿は、公家の菊亭晴季の娘とされていますが、晴季の生年などから怪しいと言われています。確かに、真田丸でも、怪しかったですよね。^^;

 

さらに、昌幸と山手殿との間には、長男・真田信幸(信之)、次男・真田信繁(幸村)がいます。

 

こちらは、草刈昌幸。^^

(出典:goosle.whdnews.com

 

昌幸が武田信玄の人質に?

昌幸は7才の頃、武田信玄のもとに人質に出されます。

 

父の幸隆が信玄に昌幸を差し出した理由は、宿敵だった村上義清を信玄の村上攻略によって、上杉謙信のもとへ追いやったことで、真田領を取り戻せたことへの感謝の意味と、忠節を誓うための証だったと伝わっています。

 

その後の、幸隆の活躍は目覚しく、武田家中でも重用されていくのです。この幸隆もかなりな策士でした。そして、その血をもっとも多く継いだのが、昌幸とも言われています。

 

それはそれとして、昌幸は、信玄のもとに人質に出されますが、実際には、信玄の奥近習衆に抜擢され、異例の大出世を果たすのです。

 

それは、信玄が昌幸の才能を見抜いたからだそうですよ。^^

 

そして、昌幸も信玄に見込まれ、寵愛されたことで、めきめきと頭角をあらわしていくのです。

 

さらに、昌幸が三男で家督を継ぐことがないと思われたため、信玄は不憫に思い、昌幸を家臣の武藤家の養子とし、武藤喜兵衛と名乗らせ、武藤家を継がせたのです。そして、なんと足軽大将にもしたのでした。

 

信玄の寵愛ぶりが伝わってきますね。^^

 

昌幸が真田の家督を継ぐ?

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武藤喜兵衛となった昌幸でしたが、信長軍と対決した「長篠の合戦」によって、兄の信綱、昌輝が討ち死にしてしまったのです。

 

このことで、昌幸に真田家を継ぐ権利が回ってきたのでした。

 

そして、武藤喜兵衛から、真田昌幸と名前を改名し、真田家の当主として、家督を継ぐことになったのです。昌幸29歳のときでした。

 

しかし、武田信玄のあとを継いだ、勝頼を支えて、さらに武田をもり立てようとしていた矢先、織田・徳川連合軍によって、武田氏は滅亡させられてしまうのです。^^;

 

長篠のダメージが相当だったのですね。

 

家臣たちは、織田方に寝返るものが続出し、勝頼は、孤立していくのです。それをなんとか助けようと昌幸の居城・岩櫃城に避難してもらおうとしていました。

 

しかし、郡内領主の小山田信茂に、新参者の真田の進言は信用できないと説得され、小山田の居城である岩殿城へ連れて行かれるのです。

 

ですが、既に織田に寝返っていた小山田は、勝頼を裏切ったのです。これは、罠であり、勝頼は、それを知りながら(きっと)、滅亡の道をたどっていったのです。

 

なんとも、儚い幕切れです。T-T

 

ここに、名門・武田氏が滅亡したのです。

 

真田家存続のために奔走する昌幸

武田氏が滅亡したことで、真田昌幸の人生は大きく変わっていくのです。

 

頼りの武田が失くなってしまったのですからね。^^;

 

そして、昌幸は、策を巡らせ、織田信長につくことを決めたのです。

 

やっと、新しい頼るところを見つけた昌幸でしたが、神様は、昌幸にさらなる試練を与えてしまうのです。

 

それは、本能寺の変でした。

 

この事件によって、織田信長が倒れ、織田はなくなってしまったのです。

 

もう、ここからは、北条やら徳川やら、上杉やらをいったり来たりしながら、真田の家を守り抜いていくのです。^^;

 

策士ここにあり!ですよね。(笑)

 

そして、徳川家康につくことで落ち着いたのです。

 

しかし、またまた、真田の領土である沼田の地を巡って、徳川と対立し、上杉を頼るのです。^^;

 

そこで、上杉景勝も、いい加減あっちいったり、こっちいったりで真田は信用できん!といわれ、最初は、断りますが、昌幸は、息子の源次郎(のちの信繁)を人質に出すことで、なんとか、上杉につくことに成功したのでした。

 

そして、真田昌幸を倒すべく、徳川家康が、真田の居城・上田城に攻めて来るのです。これが、第一次上田合戦ですね。^^

 

第一次上田合戦(神川合戦)が起きた理由とは?徳川はなめていた?

 

この上田合戦では、上田城と自分の策に自信があったため、徳川軍が攻めて来ても、城中で、囲碁を打ち、静かに徳川軍が退却していくのを待っていたそうです。

 

さすが、策士ですね。^^

 

その後、上杉から、秀吉につくことを決め、息子・信繁を秀吉の人質に出します。そして、真田は、3万8000石の大名になっていったのです。^^

 

関ヶ原の戦いに敗れ、高野山(九度山)へ配流

第一次上田合戦で徳川軍に圧勝した真田昌幸でしたが、関ヶ原の戦いでは、長男・信幸と別々になり、自身は、次男・信繁と西軍の豊臣方につくことに決めます。

 

世にいう、犬伏の別れですね。T-T

 

東軍である徳川軍に、信幸がつき、西軍である豊臣方に昌幸と信繁がつくことで、どちらが負けても、真田の家は守られるという策だったとのことですが、なんとも切ない策です。

 

関ヶ原の戦いが始まるにあたり、徳川秀忠軍を上田城で足止めにして、秀忠軍の参戦を遅らせました。これが、第二次上田合戦ですね。

 

このことで、秀忠は、のちのちまで、決して昌幸を許すことがなかったのでした。それほど、屈辱を味わったということでしょうね。^^;

 

上田城での戦いの功も虚しく、石田三成が敗れたことによって、西軍は負け、真田の上田城や領地は没収されてしまうのです。

 

そして、その処罰は、高野山への配流、九度山での謹慎だったのです。

 

不本意な晩年

関ヶ原に破れ、高野山、九度山での謹慎処分となった、昌幸と信繁。

 

いつか、信幸がここから出してくれる、きっと真田の地に戻してくれると信じて10年の月日が流れましたが、昌幸は、病になり、とうとう真田の地に戻ること叶わず、65歳の生涯を九度山で閉じたのでした。

 

昌幸は、死に際に、「あと3年生きていたい。そうすれば、3年のうちに、家康は、豊臣家を滅ぼそうと攻めて来るだろうから、豊臣家に味方して、家康を倒せるのに・・・」と自分の病を恨んだそうです。

 

時代というのは、時には残酷ですよね。昌幸があと3年生きていたら、時代は大きく変わっていたかもしれませんね。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

昌幸が九度山で亡くなってから、真田は終わりではなかったのです。

 

信繁こと真田幸村は、徳川家康の首を取るために、九度山を抜け出し、見事大坂城に帰還に成功するのです。

 

そして、大坂城に集まった、豊臣恩顧のものや、関ヶ原に敗れた浪人衆を束ね、徳川家康を倒すべく、秀頼公を守るため、大坂の陣に挑むのです。

 

家康の首に迫った真田幸村ですが、あと一歩のところで、夢叶わず・・・。

 

しかし、真田信幸こと真田信之がしっかり、真田の家を守り抜き、松代藩の藩主として、真田の家は続いていくのでした。

 

昌幸の策が実ったのです。

 

徳川家康がもっとも恐れた男、真田昌幸・幸村なのです。

 

小勢力ながら、大大名を打ち負かす、その大胆な策と行動力をもって、石田三成は、昌幸を「表裏比興の者」と最高の褒め言葉で、称えたのです。

 

その評価こそが、大名も一目置いた、真田昌幸である証でもあると僕は思います。^^

 

それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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