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松平信綱(知恵伊豆)はどんな人?その功績をわかりやすく! | 日本の歴史わかりやすくもっと知りたい!
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松平信綱(知恵伊豆)はどんな人?その功績をわかりやすく!

      2018/02/05


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三代将軍の徳川家光の側近として有名な、知恵伊豆こと「松平信綱」は、どんな人物だったのでしょうか?

 

知恵伊豆と言われるからには、さぞ、知恵があったのでしょうねということくらいしかピンと来ない。^^;

じゃあ、調べてみましょう。

 

ということで、松平信綱はどんな人で、いったい、どんな功績を残してきたのか、知恵伊豆のことをもっと知ってしまいましょう。

 

松平信綱ってどんな人?

出生

松平信綱は、慶長元年(1596年)に武蔵国、今の埼玉県あたりで生まれたとされる説が有力だそうです。

両親は、父が大河内久綱。母が深井氏の末裔。

これだけだとよくわからないですね。^^;

 

父上の大河内久綱は、神君家康公の家臣だった人。

そして、母上は、なんと、戦国のきっかけを作った、下克上の雄「長尾景春」の子孫だったんですね。

母上の父上は深井好秀といって、戦国時代の越後出身の武将です。この深井氏は、白井長尾氏の子孫ということになります。

 

ちなみに、長尾景虎こと上杉謙信は、越後長尾氏の流れになりますね。

ということは、松平信綱は、謙信公の末裔になるのか?たぶん・・・きっとそう^^;

 

幼少期

慶長6年(1601年)に、叔父である松平右衛門大夫正綱の養子になります。

このとき、知恵伊豆の片鱗を見せるエピソードがあります。

 

信綱は、あるとき、正綱にお願い事をします。

当時、三十郎と名乗っていた信綱ですが、松平の苗字がほしいので養子にしてください!とお願いしたのです。

その理由を正綱が尋ねると、「大河内(代官)姓の息子のままでは、将軍の近習になれないので、松平の姓がほしいのです」と、信綱が答えました。

それを聞いた正綱が、信綱を不憫に思い、大河内家と相談したところ、了承を得られたので、信綱を養子にすることが決まったのでした。

 

これを聞いた信綱は、とても喜んだそうです。

 

ここに、晴れて、「松平三十郎」が誕生したのです。

 

わずか5歳くらいの子供が、そこまで考えられるかとびっくりしましたが、やがて将軍となる家光に奉公したいという夢が早くからあったのでしょうね。^^

 

それを実現させるための知恵が、5歳の少年にあるのかと関心させられますよ。

 

元服

信綱は、慶長9年(1604年)に、徳川家光の小姓になり、慶長16年(1611年)に、元服をしました。

元服後は、正永と名乗りました。

松平正永ですね。

しかし、叔父の松平正綱に実子が誕生したのを受けて、「正」の字を継ぐのは実子だけだといい、自分は、信綱

と名を改めてしまいました。なんとも、機転が効きますね。

 

そして、元和9年(1623年)、家光が将軍宣下のため上洛するのに同行し、このとき、信綱も伊豆守に任じられたのです。

 

いよいよ、松平伊豆守信綱が誕生したのです。^^

 

青年期から晩年期

信綱は、17歳の時、やがて老中になる井上正就の娘と結婚しました。

(ちなみに、井上正就は、信綱が26歳くらいのころに老中になっています。)

 

井上正就は、遠江国横須賀藩初代藩主で、浜松藩井上家初代の人なんですね。

家柄も申し分なく、将来を有望視されていた証でしょうか?^^;

 

寛永10年(1633年)に、信綱は、阿部忠秋や堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に六人衆に任じられます。これは、後の「若年寄り」のことですね。

 

そして、その後、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられるのです。

ここから、いよいよ老中、松平伊豆守信綱の活躍が際立ちます。

 

詳しくは、功績編で。

 

信綱の最期

(画像引用元:新座市公式サイト

 

松平信綱は、埼玉県新座市の平林寺に眠っています。

画像は、松平信綱夫妻のお墓です。新座市の公式サイトより引用させていただきました。

 

享年67歳。寛文2年(1662年)にお亡くなりになっています。

 

老中職のまま、体調を崩し、一度は回復したものの、病状が悪化して、3月に亡くなられたそうです。

お見舞いに訪れた人も夥しい数に上ったと伝わっています。

 

松平信綱の功績

松平信綱が残した足跡(功績)はどんなのがあるのでしょうか?

大きく分けて、以下の3つを挙げてみますね。

 

島原の乱の鎮圧

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やはり、一番大きいのは、島原の乱の鎮圧ではないでしょうか?

 

寛永14年(1637年)に、島原の乱が勃発します。

幕府のキリスト教弾圧のひずみが九州の島原の地にまで広がります。天草四郎をリーダーとするキリシタンの一揆でした。

 

しかし、死を決したキリシタンたちは非常に強敵で、原城に立てこもり、戦いは長期戦となっていったのです。このため、幕府軍も手を焼いていましたが、威信にかけてなんとか鎮圧しなければならない状況でもあったのです。家光最大の危機だったともいえるでしょうね。

 

最初に総大将に任命された「板倉重昌」が長期化の要因とも言われています。召集された各藩の諸将が板倉重昌を軽く見ていた、つまりはなめていたのでしょうね。^^;

 

確かに、板倉重昌の攻撃は失敗だらけ。そのため、板倉も功をはやりすぎ、ついには無謀な攻撃をしかけ自ら討ち死にという結末だったんです。^^;

 

その後、総大将についたのが、信綱でした。

 

信綱がすごいところは、戦国乱世を戦い抜いた猛将たちを、戦の鎮圧に使ったところにあると思います。

戦を知り抜いた、立花宗茂、水野勝成、黒田一成などに協力を要請し、軍議を重ね、兵糧攻めにすることで、見事、島原の乱を平定したのでした。

 

その後、天草四郎は、さらし首。原城に立てこもって捕らえたものたちも同じくさらし首になりました。

 

この処罰には、賛否両論ありますが、当時としては、キリシタンを追放するという強い意志を示すためにやむを得ない処罰だったのかなと思います。

 

この鎮圧により、信綱の株はさらに上がるのでした。

 

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川越藩に加増で移封され、川越藩初代藩主となったのです。

 

松平信綱が川越藩主になったことがきっかけで、川越が小江戸と呼ばれるまでになったのです。^^

 

川越の整備

島原の乱を鎮圧し、3万石を加増され、6万石で川越藩に移りました。

 

その後は、城下町として、川越の町の整備に奔走したのです。

当時武蔵野あたりは、水不足が深刻でした。これを、野火止用水として、生活に欠かせない飲み水や田畑用の水などを引けるように開削したのです。

これにより、農業が発展したのです。

また、江戸と川越を結ぶための船路を整備したり、川越街道を整備したり、江戸の文化なども川越に取り入れるようになっていきました。

 

その文化の一つが、今に伝わる川越まつりですね。江戸の天下祭りを継承する貴重なまつりでもあります。

 

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鎖国体制の完成

島原の乱を鎮圧した後、信綱はさらに、キリシタンの取締りを強化しました。

 

また、武家諸法度の改正や、ポルトガル人の追放を行なったりもしたのです。

 

ポルトガルやスペインが、世界に植民地を広げていたこともあるんでしょうね。脅威になるものは排除せよという感じだったんでしょう。^^;

 

そしてさらに、オランダ人を長崎の出島に追いやって、そこを窓口に、オランダと中国、朝鮮との貿易に限定したのです。

 

これが、いわゆる「鎖国」なんですね。^^;

 

いよいよ、日本が諸外国から閉鎖される時代の幕開けです^^;

この鎖国ほど奇々怪々なことはないですよね。なぜ、門を閉じてしまったのかと。

 

この政策によって、日本が近代化に遅れたとか言われていますよね。裏を返せば、諸外国と渡り合うための力が幕府にはなかったのかもしれません。

 

伊達政宗は、家臣である支倉常長に命じてスペインやイタリアに渡らせて、貿易ができるように交渉していましたが、帰るころには、キリシタンの弾圧が激しく、結局とりやめにせざるを得なかったんです。

 

このキリシタン弾圧は、徳川幕府が外敵から脅かされるのを防ぐためだったのでしょうけど、もっと別な考えもあったのではないかと思うのですよ。

 

政宗のように、もう少し、グローバル的な考えがあってもよかったのではないかと思うのですが・・・

どうなのでしょうね^^;

 

まあ、結果論として、日本はどこからも植民地化されなかったので、よかったのかもしれませんがね。

 

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明暦の大火の対応

家光が没し、4代将軍に家綱が就任してからも、信綱は老中首座として務めました。

 

そして、家綱の時代、明暦三年(1657)に、江戸の火災史上最大の火災に見舞われたのです。世に言う、明暦の大火です。

 

江戸の町の60%以上が焼け野原になったのです。被災した大名の屋敷が500以上、神社仏閣が300以上焼失し、死者が10万人以上出たそうです。この時の死者を供養するために建てられた寺が、両国にある回向院なんだそうですね。

 

驚異的な数字ですよ。

 

この明暦の大火の信綱の対応がまさに、震災復興の模範とすべきものなんですよね。今の世に信綱がいたら、きっと、スムーズに震災復興も進んでいたのではないかと思ってしまいます。^^;

 

信綱は、この未曾有の危機を迅速に対応するため、なにを優先させるべきなのかをしっかり理解していたんですね。肩書きなど、邪魔なものでしかないとちゃんとわかっていたんでしょう。

 

そのときのエピソードが面白いです。

 

災害対策本部が火災の現場付近に設置されました。そこは、江戸城内ではありません。^^

対策本部の本部長は、当時の大老「保科正之」。そして、副本部長格で松平信綱がサポートしたわけです。

 

このとき、対策本部は、江戸城と違い、席次が特に設けられていなかった。信綱は、来た人優先で順番に奥に座るよう支持していたのです。このため、あとから入ってきたお偉いさんの酒井忠勝は、奥の上座に座ることができませんでした。酒井は、「無礼な!」と一喝して、帰ってしまうところだったのを、信綱が引き止めました。

 

信綱は、空いてる入り口付近の席を指し、「あそこにお座りください。私たちは、酒井様をいつも尊敬しています。ですので、今は緊急時で席を用意することができませんが、酒井様がおすわりになる場所を上座と考えておりますので、どうかお座りください。」

 

と、さすがの酒井も「知恵伊豆めが(苦笑)」となったことでしょうね^^

 

序列だとか肩書きだとか、緊急時には、そんなものは邪魔でしかないと分かっていたのでしょう。なかなかできることではないですよ。さすが知恵伊豆!

 

また、信綱は老中首座という権限を肩書きを振りかざすのではなく、自分が全ての責任を取るということで生かしたのです。

大火の際、独断で、松平光長ら17人の大名の参勤を免除したのです。これには、水戸の頼宣公最初は避難しましたが、「参勤をさせれば、時間もかかり、無益なことです。なにか不都合があれば、自分一人の落ち度として責任を取る覚悟でいるのでご容赦ください。大名の邸も焼け、米蔵も焼け、このような時に、いたずらに人数を増やせば、食料が尽きてしまい、食べられなくなりますよ。」と、形式よりも、実益を優先させたのです。

 

頼宣は「なるほど!」と手を打って感心したんだそうです。

 

さらに、大奥の女中たちを無事に避難させることができたのも信綱の機転だったようですね。

 

災害時には、いかに迅速に対応するかが、震災復興のキーになりますよね。形式や格式にこだわることなく、なにを今は優先させるべきなのかを理解し、それを実行できたことが信綱のスゴさです。

 

 

まとめ

松平伊豆守信綱。

 

ちょっとだけでも、イメージが伝わったら嬉しいです。家光のために忠義を果たし、江戸幕府を揺るぎない磐石なものへと整えていったその手腕は、高い評価を受けています。

 

家光は、酒井忠勝を自分の右手、信綱を左手と言っていました。それだけ、家光も信綱を頼りにしていた証ですし、実際、信綱も忠義を貫きました。

家光が亡くなるとき、殉死しないことを責められたことに対して、「みんなで死んだら誰が徳川家を守っていくのか?」と反論したそうです。

これこそ、本当の忠義なのかもしれません。

 

徳川幕府の根底をしっかり盤石なものへと固めた知恵伊豆こと松平信綱。その偉大さにただただ驚くばかりです。

 

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エピソード

 - 松平信綱


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