島原の乱とは?真実を知りたい!原因やその後もわかりやすく
2018/02/06
Warning: Use of undefined constant ‘full’ - assumed '‘full’' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/acky001/rekishi-shiritai.com/public_html/wp-content/themes/giraffe/single.php on line 46
Warning: Use of undefined constant user_level - assumed 'user_level' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/acky001/rekishi-shiritai.com/public_html/wp-content/plugins/ultimate-google-analytics/ultimate_ga.php on line 524
スポンサーリンク
島原の乱といえば、天草四郎がキリシタンのリーダーとして幕府軍と戦い、破れた戦ということくらいはわかりますが、果たして、この島原の乱って、いったい何故起こってしまったのか?
その真実や原因ってなんだったのか?っていまひとつ分からないですね^^;
では、調べてみましょう!
ということで、島原の乱とは何だったのか、そして、島原の乱がもたらした影響(その後)もわかりやすくまとめてみましたよ^^
島原の乱とは何?その原因は?
島原の乱とはいったい何だったのでしょうか?
この乱がもたらした影響は、徳川独裁政権を揺るぎないものとしたことだと思います。
つまりは、家康が最も恐れたキリシタンの逆襲を全て(恐らく)摘み取った事件だったと思うのです。
この全てというのがミソで、日本に限らず、諸外国に対してもキリスト教が入ってくる可能性のある国との貿易はことごとく廃止したのです。ここから「鎖国」というよくわからない体制が始まってしまうのです。
では、この島原の乱はなぜ起こったのでしょうか?
一般には、徳川幕府が、キリシタンの弾圧を行い、それに不満を抱いたキリシタンたちが立ち上がり、一揆が起こり、その最大のものが島原の乱だったと言われています。
ですが、そんな単純な話ではないのです。
ここが歴史の奥深さですね。^^
そもそも、長崎県の島原市にあった「島原藩」の藩主「松倉勝家」と、佐賀県の唐津市にあった「唐津藩」の藩主「寺沢堅高(てらざわ かたたか)」の悪政がことの発端だったのです。
二人の藩主は、領民に対して、容赦ない重労働と年貢の負担を強いました。そして、この二つの藩に共通していたのは、かつての城主がキリシタン大名だったことなんですね。
島原藩では、有馬晴信。唐津藩では、小西行長。
領主がキリシタンであれば、その信者にとってもとても居心地のよい場所だったはずです。しかし、戦国の習いとは言え、敗れたものは去り、新たな城主が入ってくる。そして、いつも置き去りにされるのが領民ということです。
代わりに入城してきた「松倉氏」、「寺沢氏」が領民たちにとっては悲劇の始まりだったのです。
当時は、家康もキリシタンの恐ろしさを身にしみて分かっていたので、幕府は、キリスト教を廃止するように禁教令を出していた時期でもあります。
よって、各藩にもキリシタンの取締を強化するようにとお触れがあったのです。
もともと自分の欲にしか目がなかった、松倉氏、寺沢氏にキリシタン取締の幕命が下れば、なにも気にすることなく、領民たちを苦しめることができたのです。
さらに、江戸城の改築だったり、島原城の改築だったりと、領民たちには無益なことで貴重な年貢が吸い取られていったのです。
歯向かえば、即処刑されてしまったのです。
このような背景から、次第に領民たちの不満が高まってくるのです。まあ、当然ですよね^^;
誰も、藩のために命を捧げようなんて思ってなかったと思いますよ。
ですから、最初は、どうすれば、今のこの状況を変えられるのかって、みんなで話し合ったんだと思いますが、やはり、「武力で推し進めるしかあるめぇ~」ってなったのかなって思います^^
じゃあ、だれかリーダーにって選ばれたのが、キリシタンのカリスマ「天草四郎(益田四郎時貞)」だったのです。彼は当時弱冠16歳の若さというから、キリシタンのアイドルだったのではないかと思っているのですが、どうなんでしょうね?^^;
それはともかく、こうして、キリシタンをはじめ、旧有馬氏の浪人や旧小西氏の浪人たち、キリシタンではないけど、悪政に不満を抱く領民などが、老若男女含め、総勢37,000人近くが幕府軍と戦うことになるのです。
島原の乱の真実とは?
(原城 画像引用元:Wikipedia)
幕府は、島原藩と唐津藩の領民たちの一揆に乗じて、一気にキリシタンを排除しようと考えます。
つまりは、両藩の一揆をきっかけとして、キリシタン弾圧の大義名分を掲げてしまったのです。
これを思いついたのは、知恵伊豆こと松平信綱とも言われていますがどうなのでしょう?まあ、千載一遇のチャンスとばかりに、打って出たんでしょうけどね^^;
このあたりから、幕府軍の政治VSキリスト教という宗教の戦争という構図がよく持ち出されますが、果たしてそうなのでしょうか?
確かに表向きはそうだと思うのですが、実は、平和な暮らしを取り戻したかったと思う領民たちの決死の戦いだったのだと思います。
それが真実ではないでしょうか?
かつての領主を失い、浪人となった家臣たちもお家再興を願っていたかもしれません。
なんともせつない事件に思えてなりません。
幕府軍は、最初に小藩の藩主「板倉重昌」を大将として派遣しました。これは、幕府がこの島原の乱を甘く見ていた結果だったのです。
幕府軍は、この板倉重昌を大将とは認めず指揮がとれてなかったのです。そして、さらには功をはやりすぎて、自ら討ち死にするという最期を迎えてしまいます。
これに業を煮やし、次の大将として派遣されたのが老中・松平信綱だったのです。
信綱は、九州の戦国の猛者たちと手を結び、原城に篭った、天草四郎たちを兵糧攻めにすることに決めます。そして、ついには、兵糧が底を付き、島原の乱は集結していったのです。
島原の乱その後はどうなった?
島原の乱が鎮圧されると、容赦のない最悪の処罰が待っていました。
原城に立て篭ったとされる総勢37,000名の老若男女が処刑され死亡されたと伝わっています。
中には、キリシタンとは関係のない仏教徒であるにも関わらず、原城に立て篭ったことで処罰されたのです。
しかし、一方で、幕府軍に降伏したもの、原城の断崖絶壁から飛び込んだものなど、命からがら逃げのびたものも多数いたそうですよ。
この処分だけ見ても、幕府がいかにキリスト教を恐れていたのかが分かりますね。
よほど、潰したかったのでしょう。
このことで、幕府は、大いに力をつけてしまいます。揺るぎない体制へと進んでいき、ついには、「鎖国」へと突入していくのです。
その後も、キリシタンの取締はより一層厳しさを増したそうですね。
さらに、外様大名の改易なども続き、それを見かねた由井正雪がクーデターを起こすことになるのです。
このクーデターは、由井正雪の乱としても有名ですが、この島原の乱後の幕府の強権が招いたとも言われています。この事件により、幕府はことの大きさに焦り、徐々に文治政治へとシフトしていったのです。^^
ちなみに、余談ですが、天草地方に伝わった南蛮文化をテーマにした観光列車がJR九州にあるそうです。その名前は、ジャズの名曲として有名な「A列車で行こう」です。^^
知ってましたか?
天草四郎たちの息吹きを感じられるかもしれませんよ。詳しくは、こちらを見てみてくださいね。
まとめ
島原の乱って、実は、日本の歴史上でも、最大規模の一揆なんだそうです。そうですよね。処罰された人数を見てもわかると思います。
それで、悪政をしていた松倉勝家と寺沢堅高のその後も気になりますよね?
松倉勝家は、改易処分となり、後に斬首とされました。理由は、領民をありえないほど苦しめたことで招いた一揆の責任をとるためだったそうです。
これは、非常に的を射た理由ですね。これこそ、知恵伊豆の采配だったのでしょう。
続いて、寺沢堅高は、同じく責任を取らされ、天草の領地は没収、後に精神異常をきたして自害したとのことです。されには、寺沢家は断絶となったそうです。これも理にかなっていますね。
そして、島原藩は、徳川氏譜代の家臣である高力・松平・戸田氏が治めていくことになり、唐津藩は、天草が幕府の領地となったため、これも徳川氏譜代の家臣である大久保・土井・水野氏らが治めていくことになりました。ちなみに、天保の改革で知られる「水野忠邦」は、水野家が藩主となってから4代目の藩主でした。
なるほど、水野忠邦はそこでつながっているんだ!おもしれーって思いました。
独り言です。^^;
それでは、今回もありがとうございました。
【関連記事】
スポンサーリンク