公武合体と尊王攘夷の違いとは?安藤信正が和宮を降嫁させた?
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幕末の話になると、決まって尊王攘夷だ、公武合体だ、開国だという言葉が飛び交います。
これって、分かっているようで分かっていないという人もけっこういるんですよね。
ということで、幕末の物語を今までよりもちょっとだけ楽しく見れるように、それぞれの違いをしっかり抑えてしまいましょう。^^
ということで、今回は、公武合体と尊王攘夷の違いってなに?ということについて、わかりやすく簡単にまとめてみますよ。
それでは、最後までごゆっくりお楽しみくださいね。^^
公武合体とは?
公武合体の背景
老中・阿部正弘の後を継いだ堀田正睦は、日本を強くするためには、外国と貿易をして近代技術を取り入れるべきだと主張し、ペリーのあとに来日したハリスと日米修好通商条約を結ぼうと考えていました。
阿部正弘とは?ペリーとの日米和親条約で鎖国終了?その評価は?
そのために、当時の天皇・孝明天皇を説得しますが、失敗に終わります。^^;
孝明天皇は、大の異国人嫌いだったため、異国人を日本から追い出せという「攘夷派」の急先鋒だったので、どうしても、開国することには反対だったのです。
このあたりから、幕府の権威が落ち始め、攘夷派と天皇を敬うべきとする尊王派が結びついた「尊王攘夷派」が活発な動きをみせることになるのです。
ところが、ほどなく大老に井伊直弼が就任し、しらっと日米修好通商条約を結んでしまいます。^^;
そして、老中・堀田正睦は失脚するのです。
さらに井伊直弼は、次期将軍を巡る後継問題においても、徳川家茂を選ぶなど、その強引なやり方に批判が集中します。反対する者は容赦をせず罰していきました。
いわゆる、安政の大獄ですね。このときの処刑者は100人以上だったそうです。^^;
このような自体に尊王攘夷派の志士たちは、井伊直弼にどんどん恨みを募らせていきました。
そして、ついに、桜田門外の変で、井伊直弼は暗殺されてしまいます。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された理由は?なぜ薩摩浪士がいた?
そのあとを継いだのが老中・安藤信正でした。
(安藤信正 出典:wikipedia)
信正は、幕府の力が弱ってきたことを察し、なんとか盛り返せないかと考え、その答えが朝廷と力を合わせて日本を一つにまとめるということだったのです。
公武合体とは?
老中・安藤信正は、日米修好通商条約を結んでしまった以上は、アメリカやヨーロッパに負けない国にしなければならないと考えます。
そのために、幕府だけの力では到底太刀打ち出来ないことを分かっていたのです。
そこで、朝廷と手を組み、日本という大きな枠を作り上げようとしたのですね。
これが、いわゆる公武合体なのです。
公武の「公」は、公家の公。
公武の「武」は、武士の武。
つまり、朝廷と幕府が合体するという政治的な政策だったのです。
その実現手段として、安藤信正がとった案が、天皇・孝明天皇の妹である「和宮(かずのみや)」と14代将軍・徳川家茂との結婚だったのです。
信正は、孝明天皇を説得し、見事、徳川家茂と和宮の結婚を成功させるのでした。
しかし、ここには、重大なズレがあったのです。^^;
それは?
尊王攘夷とは?
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尊王派と攘夷派
まず、尊王派についてです。
こちらは、王、つまり天皇を尊ぶということですね。
天皇を敬い、尊ぶ人たちということになります。
それが、尊王派(そんのうは)です。
次に、攘夷派です。
こちらは、異国人いわゆる外国人のことを夷狄(いてき)と呼んでいます。
この夷狄を払う、つまり、日本から外国人を追い払うという意味になります。
外国人を日本から追い払うことに賛成している人たちが、攘夷派(じょういは)なのです。
尊王攘夷とは?
尊王派と攘夷派をおさらいできたところで、尊王攘夷派ですが、これは二つを合わせたものだということがなんとなくでもわかるかと思います。^^;
つまり、時の天皇・孝明天皇は、大の外国人嫌いでした。
尊王派である人たちは、天皇が喜んでくれることをしようということになりますね。
で、孝明天皇が喜ぶことというのは、外国人を日本から追い払うこととなります。
となれば、攘夷派の人たちも一緒に活動しないか?という感じになりますよね?^^
ということで、尊王派と攘夷派がくっついて、尊王攘夷派ができあがったのです。
つまり、日本において、天皇を中心とした世の中をつくろう、そのために外国人は必要ないのだ!というように考え行動する人たちが集まり尊王攘夷派が形成されていったのですね。
気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、この方針に、幕府は存在していないのです。邪魔な存在でしかなかったのです。
そのため、世の中は、幕府よりの人間と天皇よりの人間とで、混乱していたのです。
ここに、安藤信正が考えた公武合体と、尊王攘夷派が考える国づくりとのズレがあったのです。
安藤信正が和宮を降嫁させた理由とは?
安藤信正は老中ですから、当然幕府側の人間です。
徳川幕府が衰えたとは言え、まだまだ力はあったのです。
ですから、幕府が朝廷と手を組めば、アメリカやヨーロッパとも互角に渡り合えるという発想でした。
そのため、14代将軍・徳川家茂に、その話をもちかけます。
(徳川家茂 出典:wikipedia)
信正は、幕府の力を盛り返すため、孝明天皇の妹である「和宮」様と結婚すべきですと、家茂を説得し、家茂もその話に乗ったのでした。
(和宮 出典:wikipedia)
そして、見事婚儀は成功します。ここに、晴れて「公武合体」政策が実現したのでした。
しかし、幕府が絡むことに不服を唱える尊王攘夷派が激怒するのです。^^;
なんでや?ふざけんな!って。
その勢いで、安藤信正は、尊王攘夷派の志士たちに、江戸城の坂下門外で襲われてしまうのです。
これが、「坂下門外の変」です。
安藤信正は、命は無事でしたが、背中に傷を受けたことで、武士らしからぬ様と責められ、老中をやめさせられてしまったのです。^^;
井伊直弼といい、安藤信正といい、尊王攘夷派によって、その地位を失ってしまうんですよね。
それだけ、徳川幕府の権威は落ち、逆に、尊王攘夷派の力が強くなってきたのでしょう。
このあと、尊王攘夷派は、長州や薩摩藩を中心に尊王攘夷から、倒幕へとより打倒・徳川の体制に向かっていくのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、幕末にはかかせない用語である「公武合体」と「尊王攘夷」の違いについてまとめてみました。
これから、どんどん流れは、徳川幕府滅亡へと進んでいきますよ。
幕末をより面白くするため、気になる言葉や出来事などもわかりやすく解説していきたいと思います。
どうぞ、ご期待下さいね。
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。^^
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