真田幸村(信繁)の生涯を簡単にわかりやすく!日本一の兵の名将!
2017/09/03
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皆さんは、真田幸村という人物をご存知でしょうか?^^;
と質問しておいてなんですが、かなりな愚問ですかね?(笑)
まあ、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公でしたし、「幸村」という名前くらいは知っているよという人がほとんどだと思います。^^;
その有名さも、戦国の3英傑である、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に匹敵する、いや凌ぐほどですよね。
そんな超有名な幸村ですが、史実で見ると、真田幸村が歴史の表舞台に登場し脚光を浴びたのは、わずか2年ほど。
たったの2年ですよ?^^;
2年しか、歴史に名を残していないにも関わらず、この有名ぶりはなんなんでしょうね?
そこに、真田幸村という人物の偉大さと魅力が隠されています。
今回は、真田幸村を取り上げ、その生涯を簡単にわかりやすくお伝えしていきます。
真田幸村という人物の生涯をたどっていくと、戦国という時代がどのように終わっていったのかが見えてきますよ。
では、真田幸村の生涯をたどりながら、その魅力に迫ってみましょう!^^
真田幸村の生涯年表
(画像:【真田丸大河ドラマ館】堺雅人さん演じる真田幸村(信繁))
まずは、簡単に真田幸村(信繁)の生涯を年表形式で簡単にまとめてみますね。
1567年
(永禄10年) |
真田昌幸の次男として甲府で生まれる。
幼名は「弁丸」、通称は「源二郎」。 |
1573年
(天正元年) |
武田信玄が亡くなる。 |
1575年
(天正 3年) |
父・昌幸が真田を継ぐ。 |
1582年
(天正10年) |
織田・徳川連合軍により、武田氏滅亡。
本能寺の変で信長自害。 |
1583年
(天正11年) |
父・昌幸が上田城の築城に取り掛かる。 |
1584年
(天正12年) |
真田氏は徳川氏を離れ、上杉氏へ臣従する。 |
1585年
(天正13年) |
幸村(信繁)が上杉景勝の人質となる。
海津城(のちの松代城)から春日山城へ送られる。 第一次上田合戦が勃発。 |
1586年
(天正14年) |
幸村(信繁)が豊臣秀吉の人質となり、大坂城へ。 |
1589年
(天正17年) |
兄・信幸(信之)が徳川家康に出仕する。 |
1590年
(天正18年) |
父・昌幸、兄・信幸(信之)と小田原へ参陣する。
(幸村(信繁)の初陣) |
1592年
(文禄元年) |
文録の役で、父・昌幸、兄・信幸(信之)と肥前名護屋に参陣。 |
1594年
(文禄 3年) |
従五位下左衛門佐(さえんもんのすけ)に叙任。
大谷吉継の娘を娶る。 |
1598年
(慶長 3年) |
豊臣秀吉が亡くなる。 |
1600年
(慶長 5年) |
関ヶ原の戦い。
父・昌幸とともに、上田城に帰還し、徳川秀忠軍を足止め(第二次上田合戦)。 兄・信幸(信之)と訣別する。 幸村(信繁)と父・昌幸は敗者となり、九度山へ配流。 |
1611年
(慶長16年) |
父・昌幸が九度山で亡くなる。 |
1612年
(慶長17年) |
幸村(信繁)が入道となり好白と号す。 |
1614年
(慶長19年) |
九度山を脱出し、大坂城へ入城する。
大阪冬の陣が勃発。 真田丸を築き、奮戦。
|
1615年
(元和元年) |
和睦が結ばれるも、大阪夏の陣が勃発。
家康に迫るも、惜しくも討ち死にし、その生涯を閉じる。 |
人質時代
上杉家の人質時代
真田家は、幸村(信繁)の祖父・真田幸隆の時代から、武田家に仕えはじめ、調略を武器とした武功によって、武田家中で名を上げていきました。この幸隆という人物が策士・真田のイメージの先駆者なんですよね。^^
そして、真田幸隆は、武田信玄でも落とせなかった、砥石城を調略により奪還したことで、武田家の懐刀として、なくてはならない存在へと躍進したのです。
やがて、幸隆が亡くなると、真田は、長男の信綱が継ぐ予定になっていました。
しかし、武田氏滅亡のきっかけとなった、長篠の戦いで討ち死にしており、続く次男の昌輝も討ち死にしてしまったことから、その次の3男である、「真田昌幸」が真田を急遽継ぐことになったのでした。
昌幸にしてみれば、えーっ?まじすか?って感じだったでしょうかね?^^;
ですが、見事に父・幸隆の調略を受け継ぎ、徳川家康でさえも恐れる、「真田」というブランドをさらに強固なものにしていくのです。
その後も、上野国の沼田城を落としたりしながら、昌幸は着実に勢力を拡大していったのでしたが、織田・徳川連合軍によって、武田勝頼は破れてしまい、武田家は滅亡してしまうのです。
それによって、真田家は主君である武田を失い、どの傘下に入れば、真田の家を守れるのかを調略を施しながら、世渡りしていくのです。
最初は、織田につくことに決めますが、その矢先、今度は、信長が本能寺で倒れてしまい、また主君を失います。踏んだり蹴ったりですよね。このころの真田は。^^;
信長が倒れたあとは、秀吉の時代になります。そして、秀吉は、真田を徳川の与力にさせます。そのため、徳川につくことになるのです。その後、昌幸は、家康に上田城の築城をせがみます。^^
天然の要害である地に城を建てたいと切望していた昌幸は、上杉への守りの拠点として、家康に上田城の築城を懇願したのです。これに対して家康は、築城を許可し、晴れて、「上田城」が築城されることになったのです。
しかし、やがて、家康は、北条氏政から真田から沼田城を返して欲しいと頼まれます。
これに真田に対して、北条に沼田城の一部を返すようにと命令しますが、昌幸は断固拒否します。
このことで、徳川と真田は、対立することになり、昌幸は、上杉を頼りにいきます。
ですが、上杉景勝にしてみれば、つかず離れずでこれまでも、真田に散々裏切られてきた経緯もあるので、頼るのなら、人質を出せと昌幸に命じます。
そのため、上杉への忠義の証として、人質を出すことになり、それが、信繁だったのです。
当時19歳の真田信繁。
ここから、上杉家での人質生活が始まったのです。
そして、このときに上田城で徳川を迎え撃った戦が、第一次上田合戦なのです。
第一次上田合戦(神川合戦)が起きた理由とは?徳川はなめていた?
ドラマなどでは、幸村も上田に帰還し、上田合戦で初陣を飾ったとすることもありますが、史実では、参加すらしてなかったようです。
大河ドラマ「真田丸」では、旗を振りながら、徳川勢を城内におびき寄せる役を見事に果たしていましたが、実際は、どうだったのでしょうね。^^;
人質になれば、いつ犠牲になるか分からない身ですから、恐怖におののいているのかといえば、楽しく?過ごしていたようですね。^^
それもそのはず。
上杉景勝は、幸村という人物を見て、その才覚を見抜き、とても気に入ったそうです。自分の息子であればどれほど幸せなことかと思ったというくらいですからね。人質とは名ばかりで、丁重にもてなされたみたいです。
このとき、上杉家の過労であり、景勝の右腕として豊臣秀吉からも一目置かれていた「直江兼続」とも仲良くなったようですね。
のちに、上杉家も豊臣秀吉に下らざるを生き延びていけない状況になり、上洛しますが、その時に、景勝は、兼続と共に、幸村も同行していったのです。
そこで、幸村は、秀吉に気に入られ、今度は、豊臣の人質となるのです。^^;
景勝は悔やんだでしょうね。あれほど、気に入った幸村を手放したくはなかったでしょう。
ですが、秀吉の命令には背けなかったのです。^^;
豊臣家の人質時代
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当の幸村は、上杉景勝とともに、越後へ帰ると思っていたところに、なぜか、秀吉に呼ばれ、そのまま、豊臣の人質になってしまいました。^^;
聞けば、景勝らは、既に越後に帰っていったと・・・。^^;
さすがに、なんで??って感じですよね。
何も知る由のない、大人たちの思惑の中で、幸村の人生が翻弄されていったのですからね。
ですが、そこは、幸村です。
覚悟して、豊臣方で真田家のために頑張ることを覚悟します。
ですので、この時点で、真田家は、上杉から、豊臣方についたということになりますね。
まあ、昌幸にしてみれば、秀吉なんぼのものとたかをくくっていたところはありますが、息子の幸村が秀吉のところにいれば、世の中の動きも入ってきやすいだろうからということで、幸村にその任をまかせたのでした。
大坂に入り、幸村は、世の中心を肌で感じたことでしょうね。続々と当時のヒーローたちがすぐ近くにいたのですからね。^^
そして、「石田三成」と出会います。
石田三成との出会いが、真田幸村の人生を大きく変えていくことになるのです。
今回は、ここまで。^^;
次回は、小田原征伐から記事をすすめていきたいと思いますので、少しお待ちいただけたら幸いです。^^
まとめ
真田幸村こと真田信繁ですが、幸村の名前は、信繁が生きていた頃につけられた名前ではないのです。
直筆で署名された書状には、幸村という文字が確認されていないため、幸村という名は、伝説上の名前となっているのです。
後世、誰かが、改名したのでしょうが、なぜそのような名前にしたのかはいくつか説はありますが、決め手になるものはないようです。
ですが、我々には、信繁ではなく、幸村として広く知れ渡っていますので、大坂の陣では、真田信繁ではなく、真田幸村が活躍したのです。
そのほうが、戦国のクライマックスにぴったりくるのではないでしょうか?
いつまでも我々の胸に、徳川家康を最も恐れさせた、日本一の兵である真田幸村が刻まれ続けることでしょう。
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。^^
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