第一次上田合戦(神川合戦)が起きた理由とは?徳川はなめていた?
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1582年(天正10年)という年は、歴史が大きく動いた年でもあります。
有名なところでは、織田信長が、明智光秀に本能寺で敗れ自害した、「本能寺の変」ですね。
本能寺の変については、ある程度、知っている人も多いと思いますが、それ以上に、大きな歴史の転換点となった出来事が、もうひとつあったのです。^^;
それは、「武田信玄」という偉大な人物が築き上げた名門「武田氏」が滅亡するという、山が動いた衝撃的な出来事が起きたのです。
この衝撃的な事件をきっかけに、真田家の人生も大きく動き出すのです。
そして、その大きな流れの中で、真田の名前を飛躍させた出来事が「上田合戦」なのです。
そこで、今回は、第一次上田合戦を取り上げてみます。
真田が徳川軍を2度にわたって撃退した有名な上田合戦ですが、第一次上田合戦は、なぜ起こったのか、徳川は、真田をなめきっていたのでしょうか?どうなのでしょうか?
そのあたりをわかりやすくまとめてみましたよ。ぜひ、ご覧下さいませ。^^
第一次上田合戦はなぜ起こったのか?その理由とは?
武田氏の滅亡は、当時、誰もが、信じられなかったことでしょうね。^^;
天下に号令するのは、信玄をおいて他にはいないと言われていたほどの人物でしたからね。その武田氏がまさか滅亡するだなんて、誰もが耳を疑ったと思いますよ。
信長や家康でさえも、打倒武田!を目指してはいましたが、まさか、武田を滅ぼすことができるなんて、思ってもみなかったのではないでしょうか?
ですが、時代の流れというのは恐ろしいもので、平家の栄枯盛衰の如く、信玄亡き後の武田家は、あとを継いだ勝頼の代になってから、次第に堀を埋められ、骨抜きにされながら、滅亡の道へと向かってしまったのです。
織田・徳川連合軍の策によって、武田家の家臣たちは巧みに取り込まれ、勝頼は孤立させられてしまったのです。
この武田家滅亡によって、大打撃を受けたのが、真田家だったのです。
武田の懐刀として、武田家中では、重要な立ち位置にいましたが、その頼る家が失くなってしまったのですからね。^^;
このことによって、真田家は、織田、上杉、北条、徳川という大きな傘のもとについたり離れたりしながら、必死に真田の家を守り抜いていくことになるのです。
信長につくと決めた真田昌幸でしたが、決めた直後に、本能寺で明智光秀に信長が倒され、あっという間に、また、主君選びをしなければならなくなった、昌幸でした。^^;
そこで昌幸は、北条につくか思案しますが、北条は、真田の沼田の地を狙っていることが分かり、それを阻止するために、信濃に勢力を伸ばしてきた徳川と手を組みます。
しかし、徳川も徳川で、あの家康ですから、たぬきおやじですから、裏で北条と結託し、沼田の一部を譲ることを約束してしまうのです。^^;
これには、さすがの昌幸も激怒しますよね。
案の定、昌幸は、家康と決裂し、今度は、上杉を頼る事になるのです。忙しいですね。^^;
そう、このとき、上杉に忠義の証として、差し出されたのが、息子の信繁こと真田幸村でした。
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こうして、真田と対立した徳川家康は、1585年(天正13年)、上田城を滅ぼそうと上田城攻めを始めることになるのです。
この上田合戦が、第一次上田合戦と呼ばれているのです。
ちなみに、第二次上田合戦は、関ヶ原の戦いの直前で、徳川秀忠勢を足止めにした戦になります。
それは、また別な記事でご紹介しますね。^^
徳川軍は真田をなめていた?その勢力は?
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上田城を攻略すべく、徳川家康は、大久保忠世、鳥居元忠を大将として、8,000の軍勢で攻め込みます。
対する、真田昌幸の勢力は、城内に1,500ほど。
徳川方は、投降の誘いをしますが、昌幸は当然乗るはずもなく、策によって、難局を乗り越え、見事に徳川軍を壊滅状態に陥れてしまうのです。^^
その策とは、城壁から登ってくる徳川軍に対して、頭上から、巨大な石や材木を転がしてみたり、迷路のような城内の構造を利用し、徳川軍を城内深くにおびき寄せ、一気に、弓ややりで射かけたりしながら、神出鬼没な策で、徳川軍を翻弄していくのです。
第一次上田合戦は、信幸が砥石城から出撃し、神川周辺で徳川軍と小競り合いをしたことから「神川合戦」とも呼ばれています。
この戦で、徳川軍は、1,300人以上の死者を出していますが、真田側は、わずか、40人くらいだったそうです。圧倒的な強さですよね。
徳川軍は、しばらく、包囲はするもののなすすべをなくしていたところに、徳川家重臣の石川数正が、秀吉に寝返り出奔したとの知らせがあり、徳川軍は、上田城攻めを中止し、撤退したのでした。^^
これで、第一次上田合戦は、真田昌幸の勝利となったのですね。
徳川軍の構成は、そのほとんどが、元武田の兵など、甲斐・信濃の国衆だったようです。ですので、徳川勢としての戦力は、弱かったと思いますね。
どうしても、徳川のためにという気にはなれなかったと思いますよ。お金が欲しいとか、仕事がほしいというような士気にかけた軍勢ではなかったのかと思うのです。
ということは、家康は、まだまだ徳川軍として教育されていない国衆を真田討伐に使ったということは、徳川の精鋭を使わなくても、勝てると思っていたのでしょうね。真田を舐めていたのだと思います。
この戦で、家康は、真田はあなどれないと肝に銘じたことでしょうね。^^
まとめ
いかがでしたでしょうか?
まずは、第一次上田合戦について、まとめてみました。
真田昌幸の名前が世に知れ渡った、真田にとっての大戦の始まりでした。
これによって、徳川家康は真田を恐れていくことになります。
そして、いよいよ、天下分け目の大戦である関ヶ原の戦いに時代は流れ、そこでも、真田が徳川を苦しめていきます。
それが、第二次上田合戦ですね。
続きはまたあとでまとめてみますので、お楽しみに。^^
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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