卑弥呼はなぜ邪馬台国をおさめ倭国の女王になったのか?

      2017/11/28

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歴史が苦手だという人でも、「卑弥呼」という人物はご存知だと思います。

 

古代の日本において、最初に日本(当時は倭国)の統治者として名を馳せた人物として知られていますね。^^

 

それだけ、有名な卑弥呼。

 

ですが、かなり謎のベールに包まれているんですね。

 

イメージは、弥生時代に入り、ポッと出てきて、あれよという間に、邪馬台国という国を治めて、あっという間にいなくなってしまった。

 

そんな感じがします。^^;

 

では、この卑弥呼という人物はいつ登場し、どうやって邪馬台国を起こし、女王となったのでしょうか?

吉野ヶ里遺跡とは戦国顔負けの戦乱の場所?弥生時代のお城?

 

そして、なぜ、日本(倭国)の女王として中国から認められたのでしょうか?

 

今回は、卑弥呼がなぜ国を治めることができたのかについて、簡単に分かりやすくお伝えしていきますね。

 

最後まで、ごゆっくりどうぞ。^^

 

卑弥呼とは?

卑弥呼の生年はいつころ?

卑弥呼の手がかりは、唯一、中国の史書である「魏書東夷伝倭人条」、通称「魏志倭人伝」だけです。

 

この魏志倭人伝によって、日本における弥生時代に、卑弥呼という女王が邪馬台国という国を治めていたということが知れ渡ったのでした。

 

この史書がなければ、あるいは解読されなければ、日本には、卑弥呼も邪馬台国の存在も知らなかったのでしょうね。それほど、日本にとっては偉大な史書でもあります。

 

それで、卑弥呼の生年については正確な生年は分かっていないのですが、西暦238年ころ、中国の魏の皇帝から、倭国の王として認める「親魏倭王」という称号を授かっています。

 

これによって、それよりは前ということくらいしか分かっていないのです。

 

ただ、238年あたりは既に高齢だったようで、249年には死亡したと「梁書」という史書には書かれているそうです。謎は深まります。^^;

 

卑弥呼とはどういう人物?

卑弥呼とはどういう人物だったのでしょうか?

 

これを推測するのも、魏志倭人伝によるしかないようですが、それによると、一言でいうと、元祖・巫女さんだったようですね。

 

鬼道(きどう)」と呼ばれる呪術のようなものを使っていたとのこと。

 

この鬼道をベースにした国づくりが行われていたと推測されています。

 

まさに、神がかった、巫女さんのようなイメージですよね。

 

そして、卑弥呼は、生涯独身を貫いたそうです。

 

また、卑弥呼には弟がいて、卑弥呼の身の回りの世話や邪馬台国の統治のサポートをしていたそうですね。

 

卑弥呼は、邪馬台国を統治してからは、この弟だけとしか会わなかったとも伝わっています。

 

なんとも、謎だらけですね。^^;

 

卑弥呼はなぜ邪馬台国を治めることができたのか?

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卑弥呼が邪馬台国を治めるまでの軌跡とは?

魏志倭人伝によると、卑弥呼が女王に即位する前までは、70~80年間も男の王が続いたそうです。

 

そして、そこに内乱が起こり、それが鎮圧したあと、ひとりの女子を立てて即位させたとあります。

 

なぜ即位させたのか、男がいなかったのか、それとも、卑弥呼の特異性が買われて即位されたのかは不明です。

 

ですが、このとき即位した女子こそ、「卑弥呼」だったのです。

 

即位した時には既に高齢だったようですよ。^^

 

卑弥呼はどうやって倭国の王になったのか?

さて、卑弥呼が女王として即位してからどれくらいの年数があったのか不明ですが、西暦238年には、魏の皇帝から日本の王としての証しである「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号と金印が授与されています。

 

この時の魏の皇帝は、明帝・曹叡(そう えい)です。

 

この曹叡は、三国志で有名な「曹操(そう そう)」の孫になります。

 

魏は、曹操の息子である文帝・曹丕(そう ひ)が初代皇帝になっています。

 

三国時代とは、諸葛孔明で有名な時代で、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国が群雄割拠した時代です。

 

諸葛孔明は、蜀の初代皇帝となった劉備玄徳(りゅうび げんとく)の軍師として有名ですね。

 

日本で言えば、豊臣秀吉の軍師となった黒田官兵衛のような人物です。ですが、どちらかといえば、竹中半兵衛の方が孔明っぽいですがね。^^

 

ちなみに、三国の初代皇帝には、魏では曹丕(そう ひ)、蜀では劉備(りゅうび)、呉では孫権(そんけん)がそれぞれ就きました。

 

魏の初代皇帝が曹操でないのは、魏の国が起きた西暦220年に曹操が病で亡くなってしまったからです。

 

曹操は無念だったでしょうね。

 

ですが、息子の曹丕がちゃんと後を継ぎ、そして、その息子である曹叡が2代皇帝としてその後を継いだのです。

 

この曹叡から卑弥呼が、倭の国王として認められたということなのです。

 

では、どうやって、卑弥呼は倭王になったのでしょうか?

 

それは、魏に対して頻繁に貢ぎ物をして、魏の庇護を得るように工作したからと言われています。

 

当時、邪馬台国と敵対していたとされる国「狗奴国(くなこく)」があったそうですが、卑弥呼は、邪馬台国の力を揺るぎないものにするため、魏の力を利用したのです。

 

魏の力を得ることで、邪馬台国を磐石として、自らは日本の王として君臨するように策を尽くしたのだと思います。

 

それを叶えたのが、鬼道だったのでしょうかね?^^

 

弟の政治的なセンスと卑弥呼の鬼道が邪馬台国をトップに押し上げたのかもしれませんね。

 

古代ロマンです。^^

 

卑弥呼が亡くなったあとはどうなった?

卑弥呼は、西暦249年に没したと伝わっています。

 

享年いくつかは不明です。^^;

 

卑弥呼が亡くなったあとは、邪馬台国は衰退していきます。

 

男の王が就いたりもしましたが、女子である「壱与(いよ)」という人物が女王に就いて再び安定した時期もあったようです。

 

壱与も魏の皇帝より、親魏倭王の称号を与えられたと伝わっていますが、それを証明する文書は残念ながらないようで、その真偽は謎に包まれています。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

今回は、謎に包まれた日本初の女王・卑弥呼を取り上げてみました。

 

卑弥呼の「卑」という字は、中華思想と呼ばれる、中国側の見方から付けられた名前だと言われています。

 

中国こそ、世界の中心であり、最も優れているという思想が「中華思想」というものです。

 

倭国の「倭」も同じ意味合いです。

 

当時では確かに中国が高い文化レベルをもち、中国から伝わったものもたくさんありました。

 

それくらい、怖いものなしの中国だったんですね。

 

卑弥呼は、それに甘んじてでも、国をひとつにしたかったのかもしれませんね。

 

古代ロマンは謎だらけで、面白いですね。^^

 

それでは、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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