卑弥呼とは誰なのか?天照大神なのか?弟はスサノオだった?
Warning: Use of undefined constant ‘full’ - assumed '‘full’' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/acky001/rekishi-shiritai.com/public_html/wp-content/themes/giraffe/single.php on line 46
Warning: Use of undefined constant user_level - assumed 'user_level' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/acky001/rekishi-shiritai.com/public_html/wp-content/plugins/ultimate-google-analytics/ultimate_ga.php on line 524
スポンサーリンク
これまで卑弥呼について、邪馬台国の女王、倭国の女王にはどうやってなれたのか?
また、死因やお墓はどこなのか?についてご紹介してきました。
そして、卑弥呼シリーズの第3弾は、卑弥呼とはいったい誰なのか?についてです。^^
なんのことか「??」かもしれませんね。
しかし、卑弥呼は、日本の史書である「古事記」や「日本書紀」に書かれているヤマト王権の誰かだとする議論が江戸時代から行わていたのだそうですよ。
卑弥呼は卑弥呼であり、実は別の人物でもあったということなんですね。
まるで、あるときは卑弥呼で、またあるときは○○で・・・
と、キューティハニーのような感じだったのでしょうかね?^^;
それはさておき、謎の多い卑弥呼であるから、義経伝説ならぬ、卑弥呼伝説もたくさんあるのです。(笑)
というわけで、今回は、卑弥呼が誰だと言われているのか?について、諸説あるうちから今回は3つ取り上げてご紹介してみますね。
これを調べていくと、卑弥呼っていったい何者?古代人っていったい何者なのって思うかもしれませんね。^^;
それだけ、古代史は謎めいているのです。これこそ、古代ロマンか?(笑)
それでは、最後までごゆっくりどうぞ。
目次
卑弥呼は誰なの?
卑弥呼は卑弥呼でしょう。
って普通思いますよね?
ですが、古代の人たちの伝説は実在したのかさえ定かではないことも多く、謎に包まれています。
まして、その人が本当にその人なのかも曖昧なことが多いのです。
そういう意味においても、卑弥呼は、本当に卑弥呼なの?ってなるのも無理はないでしょう。
ですが、中国の史書である「魏志倭人伝」に、しっかりと卑弥呼と邪馬台国が書いてあるからこそ、卑弥呼は卑弥呼と言えますが、それはあくまで中国の魏からの見方なのです。
じゃあ、日本ではなんていうひとだったのか?
というのが、この卑弥呼は誰?を推測する発端になっているのです。
この推測が江戸時代から議論されているということでした。
そして、例のごとく諸説あるのですね。^^;
それでは、いったい卑弥呼は誰だと言われているのでしょうか?
早速、見てみましょう。
卑弥呼は誰? その1 天照大神だった?
(天照大神 出典:wikipedia)
まずは、これです。
卑弥呼は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」だったとする説です。
天照大神(アマテラスオオミカミ)は、日本神話に登場する神のことで、太陽の神とされ、皇室の祖神だった伝説の人物として有名ですね。
このアマテラスは、女神だったとする説と男だったとする説があります。
女神だとすれば、ちょうど卑弥呼が生きた時代と合うため、卑弥呼がアマテラスではないか?ということらしいです。
何とも単純?ですよね。^^;
まあ、それだけではないですけどね。
そもそもの根拠は、中国(魏)という超大国の史書に記載が載っているということは、日本においても超ビッグな人物であったに違いない!
というものらしいです。
そのため、じゃあ、そのビッグな人って誰なのと考えてみると、「天照大神」くらいじゃないの?
となって、天照大神が卑弥呼だ!?となったそうですよ。
そして、ちょうど生きていたとされる年代もあっているし、女神だとすれば性別もあっているし、天照大神で決まりだね!ということなんですね。
さらに、アマテラスの別名は、「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)と言われ、これは太陽に仕える巫女という意味らしいです。
このことからも、鬼道使いの卑弥呼にピッタリということで、やっぱり卑弥呼が天照大神だとなったそうですよ。
そして、卑弥呼には弟がいたことがわかっていますので、天照大神の弟である「スサノオ」は、卑弥呼の弟だとなったわけですね。
なんとも、パズルをやっているようで楽しいですね。
それにしても古代の人の名前は難しいです。^^;
卑弥呼は誰? その2 倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説
(箸墓古墳(箸中山古墳) 出典:wikipedia)
スポンサーリンク
次ですが、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だとする説です。
それにしても、古代史によほど詳しくないと読めないですよね?
僕は読めませんでした。^^;
この人は、「やまとととひももそひめのみこと」とか「やまとととびももそひめのみこと」と呼ばれているそうですが、ふりがながあっても噛みそうです(笑)
倭:やまと
迹:と
迹:と
日:ひ
百:もも
襲:そ
姫:ひめ
の
命:みこと
それぞれ当てはめてみるとこうなります。
なんとも難しい(笑)
それはさておき、この姫は、第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女で、巫女のような女性だったそうなのです。
そして、お墓は、箸墓古墳(奈良県桜井市)だったと言われています。
「うん?」
と思ったあなた!
気づきましたかね?
「箸墓(はしはか)古墳」は誰の墓と伝わっているか?
そうです。
卑弥呼のお墓と伝わっている古墳ですね。
詳しくはこちらに書いていますのでご覧くださいね。
巫女でお墓が箸墓(はしはか)古墳であれば、卑弥呼でしょう?となったわけですね。
この説は、結構支持者が多いそうですよ。^^
卑弥呼は誰? その3 神功皇后(じんぐうこうごう)説
(神功皇后と武内大臣 出典:wikipedia)
最後に、神功皇后説についてです。
この神功皇后は、父が第9代・開化天皇の玄孫で「息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)」という人物で、第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の后となった人物です。
そして、第15代・応神(おうじん)天皇の母でもあります。
根拠は、日本書紀の「神功皇后紀」において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事が引用されていて、卑弥呼を神功皇后だと思わせる記載があることだそうです。
確かにそう書いてあればそのように思ってしまいますね。
但し、卑弥呼の時代と神功皇后の時代が合っていないという理由から、否定的な見方もあるようです。
また、卑弥呼は生涯独身だったというように伝わってますので、天皇の后になっているのも矛盾がありますよね。
ですが、先ほどの倭迹迹日百襲姫命説に次いで支持者が多いそうですよ。
なんとも、よくわかりませんね。^^;
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、卑弥呼の第3弾として、卑弥呼は誰だったのか?についてご紹介しました。
江戸時代から卑弥呼は誰なのかという議論が行われているそうですが、本居宣長は、卑弥呼は熊襲の女酋だったと推測したそうですよ。
熊襲(くまそ)とは、ヤマト王権と敵対した集団だったようです。
そこの酋長だったとする説です。
この説は、卑弥呼は神功皇后だったということを元に、偽の神功皇后がいたとするものです。この偽の神功皇后こそ、熊襲であり、その酋長であったとしています。
この酋長が卑弥呼だというのです。
なんとも、様々ありますね。^^;
この他にも諸説はあり、どれが卑弥呼なのかは今でも謎のままです。
仮説を立てて、これが卑弥呼だと立証されるときは来るのでしょうか?
なかなか難しいとは思いますが、これこそが古代史のロマンですね。^^
それでは、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
スポンサーリンク
【関連記事】