縄文時代の常識を覆した三内丸山遺跡(青森)の凄さとは?

      2017/11/26

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縄文時代といえば、勇猛な男たちが狩りでその日の食料を調達して暮らしを支えていた。

 

そして、集落というのもあまりなくて、獲物を追いかけながら、あちらこちらに居を構えていた。

 

そんな暮らしぶりをイメージしがちですが、実は、そんな原始的なことだけではなかったのです。

 

それは、青森県にある「三内丸山遺跡」が発見されたことで、縄文時代の常識が覆ったからなのです。

 

では、何が覆ったのでしょうか?

 

今回は、縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡を取り上げて、その凄さをわかりやすくお伝えしていきますね。

 

最後まで、ごゆっくり。^^

 

三内丸山遺跡とは?

近年、全国各地の発掘現場で新たな発見がされています。

 

その中でも、古代史にまつわる遺跡の発掘は、次々とこれまでの通説や常識を覆すものがあったり、ますます古代のロマンが掻き立てられますね。

 

そんな中、古代史に大きな発見をもたらせた遺跡が2つあります。

 

1つは、佐賀県にある「吉野ケ里(よしのがり)遺跡」。

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そして、もう一つが、青森県の「三内丸山(さんないまるやま)遺跡」です。

 

今回は、この三内丸山遺跡を取り上げて行きますよ。

 

まずは、三内丸山遺跡はいつどこで発見されたのかを軽くおさらいしておきましょう。

 

三内丸山遺跡はどこにある?

三内丸山遺跡は、青森県青森市三内丸山にある遺跡です。


アクセスは、それぞれ自動車と鉄道とバスがあります。

  • 東北自動車道青森ICもしくは青森自動車道青森中央ICから国道7号青森環状道路経由で青森市道都市計画道路3・4・15号里見丸山線に入ってすぐ。
  • 東日本旅客鉄道(JR東日本)・北海道旅客鉄道(JR北海道)新青森駅からあおもりシャトルdeルートバス「ねぶたん号」で終点「三内丸山遺跡前」バス停下車。
  • JR東日本・青い森鉄道青森駅から青森市営バス三内丸山遺跡線で「三内丸山遺跡」バス停下車。

出典:wikipedia

 

三内丸山遺跡はいつ発見された?

実は、この地に、遺跡があるかもしれないという情報は、江戸時代からあったそうです。

 

瓦や甕、土偶らしいものが1600年代、1700年代に既に発見されていて、ここには絶対縄文時代の遺跡があると確信していたそうです。

 

当時の弘前藩の諸事情を記した「永禄日記」という書物にそれらが記載されていたそうですよ。^^

 

そして、ときは進み、1992年に、この地に「県営野球場」を建設する計画が進んでいたのでした。

 

その調査の中で、うん?待てよとなって、よくよく調べてみたら、直径約1メートルの栗の柱が6本検出されたのです。

 

これを見て、ここは、大型の建物がたっていたのではないか?やはり、ここには遺跡があったんだということで、既に、建設中だった県営野球場を取りやめて、発掘調査に変更したんだそうです。^^

 

1994年、本格的な三内丸山遺跡の発掘調査が始まったのです。

 

三内丸山遺跡から何が見つかたのか?

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それで、発掘調査が進み、どんなものが発見されたかというと、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫はもちろん、それ以上に縄文時代の常識を覆すものが次々と発見されたのです。

 

それは、このようなものでした。

 

  • 大型竪穴住居が10棟以上
  • 約780軒にもおよぶ住居跡
  • 祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物

 

大きな建物があったこと、780軒もの住居があったことから、既に、ここには、集落があったのではないかという推測が立てられました。

 

また、縄文時代後期とは異なった土偶が多く出土されたり、遺跡の栗をDNA鑑定で調べたところ、栽培していたものだったことも分かり、この地では、狩猟採集だけでの暮らしではなく、栗やごぼうや豆などの栽培も行われていていたのではないかと考えられるようになったのです。

 

つまり、狩猟採集をして、獲物を追いかけるために住居を転々としていた採集民族の縄文人というイメージを一気に覆す発見となったのです。^^

 

これって、すごくないですか??

 

三内丸山遺跡の凄さとは?

(画像:黒曜石 出典:wikipedia

 

貿易があった?

先にお伝えした、狩猟採集のみの暮らしではないということ以外にも、実は、凄いことが分かってきたのです。^^

 

それは、日本各地と交易をしていたのではないかと思われる「黒曜石」や「翡翠(ヒスイ)」などが出土されたからです。

 

つまり、当時にしてみれば、同じ日本でも外国のようなイメージでしたでしょうから、貿易ですよね。

 

縄文時代でも、貿易があっただろうということです。

 

この翡翠(ヒスイ)は、糸魚川でしか産出されないものであるため、少なくとも、青森と新潟との交易がなければ、この地には存在しないはずですよね。

 

戦争があった?

縄文時代では集落という概念がなかったとする常識が覆ったことで、実は、戦争があったのではないかということなのです。

 

大規模ではないにしても、小競り合いのようなものはあったのではないでしょうか?

 

人々が集まり増えてくると村が出来て、集落が出来ます。

 

そして、それぞれの作物などの蓄えをめぐり衝突が起こります。

 

その蓄えを奪ったり奪われたりしながら、自分たちの集落の規模を拡大させて出来上がった最大のものが天皇家を中心とする大和朝廷ですよね。

 

それは少し先の話ですが、少なくとも、こうしたいざこざは、弥生時代からの話だったのです。

 

それが、実は、縄文時代から既に集落があり、いくさもあったとなれば、どんどん古代史も塗り替えられてしまいますね。

 

そのくらいインパクトのある遺跡が三内丸山遺跡なのです。^^

 

凄いですね~。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

今回は、縄文時代の常識を覆した「三内丸山遺跡」を取り上げて、

 

その凄さについて、わかりやすくお伝えしました。

 

古代史のロマンがどんどん塗代わり、いつの時代か、衣服の常識も変わるかもしれませんね。

 

期待して待ちましょう。

 

発掘は楽しいですね。夢がありますね。

 

それでは、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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