姉川の戦いとは?合戦の場所は?地図で布陣図もわかりやすく解説!
2017/10/15
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姉川の戦いって、どんな戦いだったのでしょうか?^^;
教科書にも出てくる合戦なので、名前くらいは知ってるって言う人も多いかもしれませんね。
今回は、姉川の戦いを点として、その流れを分かりやすく簡単にまとめてみますね。
姉川の戦いの点へと結びつく、他の点にはどのような人物がいるのでしょうか?
早速、見ていきましょう。どうぞ、ごゆっくり。^^
目次
姉川の戦いの点と線
歴史上の合戦を見ていく上で重要になるのが、その戦に関わった人と理由です。
ここでは、関わった人を「点」として、理由を「線(流れ)」としてわかりやすく解説していきますね。^^
姉川の戦いに関わった人たち(点)
姉川の戦いってどんな合戦だったのかを解説する前に、主要な登場人物と人数を挙げておきましょう。
登場人物(点)を見るだけでも、なんとなく、どんな戦だったのかというイメージがつきやすいですので。
勝者のメンバーと人数は?
まず、勝者側ですが、姉川の戦いは、「織田信長・徳川家康の連合軍」の勝利となっています。
(織田信長 出典:wikipedia)
連合軍の人数は、約2万5000人です。
■織田信長の主な武将たち
- 柴田勝家
- 佐久間信盛
- 森可成
- 丹羽長秀
- 池田恒興
- 佐々成政
- 木下藤吉郎
■徳川家康の主な武将たち
- 酒井忠次
- 本多忠勝
- 榊原康政
- 石川数正
■旧美濃衆の主な武将たち
- 稲葉良通(一鉄)
- 氏家卜全
- 斎藤利治
敗者のメンバーと人数は?
続いて、敗者を見てみましょう。
姉川の戦いでの、敗者は、「浅井長政・朝倉義景の連合軍」です。
(浅井長政 出典:wikipedia)
連合軍の人数は、約1万3000人です。人数からも、劣勢だったことがわかりますね。^^;
■浅井長政の主な武将たち
- 磯野員昌
- 堀秀村
- 阿閉貞征
- 新庄直頼
- 遠藤直経
■朝倉義景の主な武将たち
- 朝倉景健
- 真柄直隆
- 真柄直澄
■六角氏
- 六角義賢
- 六角義氏
姉川の戦いが起きた理由とは?(線)
登場人物を見ていただいたので、次に、姉川の戦いが起きた理由を見ていきましょう。
織田信長は、美濃の斎藤氏を攻略することができず、やきもきしていました。
そんな折、北近江(現在の滋賀県北部)の浅井長政という人物を味方につければ、美濃攻略にも有利で、かつ、京にも上りやすいとわかり、浅井長政を味方にする策を考えるのでした。
そして、信長は、妹の「お市の方」を長政に嫁がせ、浅井家と姻戚関係、同盟関係を結び、見事、浅井家を味方にすることに成功したのです。
しかし、この時、浅井家側の盟友である「朝倉家」は、織田信長と敵対していました。
ですので、浅井家が信長と親しくなるのを快く思ってなかったのです。
というわけで、信長は、朝倉は攻めないと約束したうえで、「それなら!」と浅井長政は、織田との同盟に同意したのです。
こちらにも、そのあたりを書いてますので、よければご覧くださいね。^^
浅井長政の城や家紋は?お市・織田信長との関係は?娘や子孫は?
その後、織田信長は、足利義昭を連れて京に上り(上洛)、義昭を足利15代将軍にすることに成功するのです。
そして、信長は、朝倉氏を攻略するために、足利義昭の命令と称して、朝倉義景に上洛するように、再三に渡り、通達するのです。
しかし、この命令には、朝倉義景が拒否し続けてしまうのです。いくら足利義昭の命令と言っても、操っているのは、織田信長であることは明白で、従うことは、信長の軍門に下ることを意味していたのです。
ですから、織田と敵対していた朝倉氏は、拒否せざるを得なかったのです。^^;
このことがきっかけで、信長は、しびれを切らし、とうとう、浅井長政との約束であった、朝倉を攻めないということを破り、朝倉義景を攻めることにしたのです。
そして、これを知った浅井長政は、信長を裏切り、朝倉義景とともに、信長と戦うことを選んでしまうのです。
長政は、信長の背後をつき、信長たちは、まさかの長政の裏切りのため、総崩れとなり、最大のピンチを迎えてしまうのです。
ですが、なんとか、難を逃れます。
そして、信長は、長政の裏切りに激怒し、浅井長政を滅ぼすべく、長政の居城である「小谷城」へと2万の兵を率いて向かったのです。
これが、姉川の戦いへとつながる流れなんですね。^^
姉川の戦いとは?
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合戦の場所は?地図と布陣図も
織田信長は、浅井長政の裏切りによって、ピンチを迎えました。
そして、信長は、このピンチを脱するため、同じく同盟関係であった、「徳川家康」に援軍を頼みます。
信長は、長政の居城「小谷城」を目指し、2万の軍勢で向かいます。
家康も、5000の兵を率いて、小谷城の麓、姉川の南岸へとかけつけます。
一方の浅井長政は、朝倉義景の援軍8000の兵とともに、姉川の北岸まで進みます。
この姉川をはさんで両者が激突することになるのです。
これが、姉川の戦いなのです。
元亀元年、1570年の6月28日にその戦いは行われました。^^;
場所は、現在の滋賀県長浜市姉川河原あたりとされています。
(姉川の戦い 古戦場 出典:wikipedia)
地図で言うと、このあたりですね。^^
(姉川の戦い布陣図 出典:wikipedia)
姉川をはさみ、浅井・朝倉連合軍、織田・徳川連合軍が激突します。
姉川の戦いはどうなったか?
最初は、両軍とも、にらみ合いでしたが、しかけたのは、徳川家康の家臣、徳川四天王のひとり、「榊原康政」でした。
家康は、浅井・朝倉連合軍が、縦に伸びて散らばっていることに気づき、榊原康政に、「横を突け!」と命令したためです。
この作戦は、成功し、浅井・朝倉連合軍は、横を突かれ、総崩れとなったのです。
これにより、浅井・朝倉連合軍は、大敗を喫し、討死した数、1000人以上(諸説有り)にも上ったとのことです。このとき、長政の弟・政之が討死しています。
この姉川の戦いで、姉川は、討死した武将たちの血で、真っ赤に染まったとのことです。
この戦いにより、浅井家は、家族や優秀な家臣たちを失い、急速に勢力が弱まっていきます。
そして、いよいよ、浅井家滅亡へとつながる、「小谷城の戦い」へと流れていくのです。
小谷城の戦いとは?浅井長政最後の決戦!その後も分かりやすく!
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、浅井長政・朝倉義景の連合軍と織田信長・徳川家康の連合軍が激突した「姉川の戦い」について、わかりやすくまとめてみました。
姉川の戦いをきっかけに、浅井家は急速に勢いが弱まり、やがて、滅亡へと進んでしまい、残された、お市の方や娘たちは、数奇な運命をたどることになるのです。
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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