小谷城の戦いとは?浅井長政最後の決戦!その後も分かりやすく!

   

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姉川の戦いで、浅井長政は相当なダメージを受けました。

 

今回は、姉川の戦いのその後についてですよ。^^

 

浅井長政が織田信長と最後の決戦に挑みます

 

それが、「小谷城(おだにじょう)の戦い」です。

 

とうとう、この戦いによって、浅井家が滅亡してしまうのです。T-T

 

そこには、どんなドラマがあったのでしょうか?

 

そして、その後は、どうなったのでしょうか?

 

浅井家のクライマックス!わかりやすく簡単にお伝えします。

 

どうぞ、最後までごゆっくりしていってくださいね。

 

小谷城の戦いの点と線

小谷城の戦いの点と線を、ここでは、定義しましょう。

 

小谷城の戦いの点とは?

小谷城の戦いの点は、ズバリ、勝者と敗者の武将とします。

 

勝者のと兵力(人数)は?

小谷城の戦いの勝者側ですが、冒頭でもお伝えしているとおり、「織田信長」です。

 

兵力は、約3万と伝わっています。

(織田信長 出典:wikipedia

 

敗者と兵力(人数)は?

続いて敗者ですが、こちらも冒頭でお伝えしているとおり、「浅井長政」です。

 

兵力は、織田軍の1/6で、約5千

(浅井長政 出典:wikipedia

 

小谷城の戦いの線とは?

(画像:小谷城跡地)

小谷城の戦いの線は、浅井長政の居城「小谷城」で織田信長と戦うことになった理由や経緯です。そして、さらに、その結果どうなったのか?という流れです。

 

この小谷城の戦いの結果、戦国の世の中の流れが大きく変わりはじめていくことになるのです。

 

あとで、もう少し説明しますが、この戦いのあと、織田家の子孫浅井家の子孫豊臣家や徳川家、さらには天皇家、公家たちにも及んでいくのです。

 

つまり、戦国末期以降、現在まで、その時代その時代で活躍した有名な人物たちは、織田家と浅井家の血を引いている人たちが多いのですよ。

 

これって、凄くないですか??^^

 

この戦い自体は悲劇ですけど、現在の日本を作ってきた人たちを生み出してきたことは、この二人がいたおかげだと思うのです。この二人が出会い、激突したからこそ、現在があるのだと思うのです。^^

 

大げさでしょうか?いや、それは、真実だと思いますよ。

 

そもそも、織田信長が美濃を手中に収めたいと策略し、浅井長政に目を付けなければ、後の豊臣秀頼も、徳川家光も生まれなかったのですから。^^;

 

ということで、小谷城の戦いの線は、小谷城の戦いが起こった理由と、その後の流れについて、まとめていきますね。

 

小谷城の戦いとは?

姉川の戦いから小谷城の戦いまでの経緯

信長包囲網

姉川の戦いで、大きなダメージを受けた浅井長政でしたが、実は、勝利した織田信長も苦しい状況に陥るのでした。

姉川の戦いとは?合戦の場所は?地図で布陣図もわかりやすく解説!

 

信長には、敵が多くいました。^^;

 

まあ、それは容易に想像がつくと思います。

 

浅井長政や朝倉義景をはじめ、室町幕府の15代将軍になった足利義昭は、最初こそ、将軍にしてもらった恩もあり、信長贔屓を装っていましたが、腹の底では、自分より力があり、目立つやつは許せん!と思っていたのです。

(足利義昭 出典:wikipedia

 

足利義昭は、室町幕府の将軍であることに誇りを持ち、衰退した室町幕府の再興を願っていました。

 

室町幕府が衰退していたとしても、名声的には、足利義昭が、当時のナンバー1だったはずなのです。

 

本人は、そう信じてやまなかったのです。^^;

 

義昭は、自分が出す命令は、どんな大名であろうと従わねばならぬと思っていたのです。

 

ですから、いつかは、信長を滅ぼさなければならないと考えていました。

 

しかし、現実的に、自分には、兵力のある味方が少ないということが分かっていたのです。

 

ですから、あるときには、上杉謙信、武田信玄にすがったり、朝倉義景や毛利氏を頼ったりしていくのです。

 

そして、さらには、石山本願寺の代表である「顕如」にも頼っていくのです。

(顕如 出典:wikipedia

 

そして、いよいよ、織田信長を潰すべく、頼った武将や石山本願寺の顕如に、「信長を攻めろ!」と命令をくだすのです。

 

命令された諸大名や顕如たちは、外見では、足利義昭に従う体を見せますが、本当は、信長を滅ぼす好機ととらえていたのです。

 

顕如も、信長と10年に渡り、対立していました。

 

顕如は、浄土真宗で民衆を導きたいと思っていましたが、信長は、宗教など関係なく、武力で世の中をまとめていく方針のため、かねてから、信長とは考えが合わなかったのですね。^^;

 

ですから、顕如も義昭の命令に従ったのでした。

 

姉川の戦いが終わってから、織田信長は、足利義昭が信長を攻めろという命令に従った、武田信玄、毛利氏、朝倉義景、浅井長政、そして、石山本願寺の代表である「顕如」らに囲まれ、睨まれていたのです。

 

これが、信長包囲網と呼ばれるものですね。^^

 

これによって、信長が苦しめられていくのです。

 

この信長包囲網は、武田信玄が病で亡くなるまで続いたと言われていますよ。

 

比叡山の焼き討ち

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信長包囲網により、信長は苦しめられますが、その間にも、信長は勢力を拡大するため、三好三人衆を攻めるため、摂津(現在の大阪府と兵庫県の一部)に出向いていました。

 

これを「野田城・福島城の戦い」といいます。

 

これを好機ととらえ、浅井長政と朝倉義景が織田信長の留守中に最前線を突破することに成功し、京へ攻めかかります。

 

これを聞いた信長は、浅井長政と朝倉義景の軍勢を迎えるべく、戻ります。

 

しかし、浅井長政と朝倉義景は、比叡山延暦寺の勢力を味方にし、比叡山に逃げて行きました。

 

これに対して、信長は、比叡山の勢力に対し、浅井長政・朝倉義景に味方するならば、比叡山を焼き尽くしてしまうぞと脅します。

 

しかし、比叡山方は、まず、そんなことは起こるはずがないと考え、そのまま、浅井長政・朝倉義景の味方についたのでした。

 

比叡山の反信長勢力が増えてきたこともあり、とりあえずは、信長は停戦したのでした。

 

これを「志賀の陣」と呼んでいます。

 

しかし、このことで、信長の怒りに火をつけてしまうのです。

 

そうです。

 

あの「比叡山延暦寺の焼き討ち」が行われてしまったのです。

 

このころから、信長の家臣たちにも、少しずつ疑心されだしていきますね。

 

信長は、狂い始めたと思ったのでしょう。^^;

 

このことで、信長に恐怖した磯野員昌や宮部継潤ら浅井家家臣たちは、織田家に降伏し、徐々に浅井家の基盤がゆるぎ始めるのです。

 

一乗谷城の戦い

織田信長は、足利義昭を京都から追放し、浅井長政の家臣が続々と降伏して来たことから、一気に浅井長政を責め滅ぼそうと考え、3万の兵を率いて、小谷城の要所「虎御前山」に陣を敷きます。

 

そこに、援軍で駆けつけた朝倉義景ら2万の兵を率いて小谷城の北部まで進んでいきます。

 

しかし、織田の軍勢に敗北し、命からがら逃げてきた朝倉義景は、居城「一乗谷城」にたどり着きますが、信長に猛追され、一乗谷城を焼き払われてしまうのです。

 

朝倉義景は、味方の裏切りにもあい、炎上している一乗谷城で自害して果てたのです。

 

享年41でした。

 

これにより、名門朝倉家は滅亡してしまうのです。

 

(一乗谷城の復元遺構 出典:wikipedia

 

朝倉義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝されたそうです。

 

そして、いよいよ、残るは浅井長政の首のみと、信長は、小谷城へと向かうのでした。

 

小谷城の戦いはどうなった?

一乗谷城の戦いで、盟友・朝倉義景を失った浅井長政は、落胆したことでしょうね。

 

そして、続々と織田方に寝返る家臣たちも増え、浅井家は、どんどん弱体化していくのです。

 

織田信長は、朝倉義景を攻めたあと、小谷城を目指し、一気に浅井勢を攻め滅ぼしてしまうのです。

 

天正元年(1573年)8月に起きた、これが、小谷城の戦いなのです。

 

小谷城での籠城も最初は、そこそこ奮戦していましたが、3万に対して、5000の兵で、勝負は最初からついていたのです。

 

そして、浅井長政の父・浅井久政は、小谷城の小丸で自害します。

 

その後、浅井長政は、妻のお市の方と娘の茶々・初・お江を信長に返し、自害してしまうのです。

 

享年29でした。

 

これにより、浅井家も滅亡してしまうのです。

 

小谷城の戦いのその後は?

処罰は?

自害した、浅井長政、父・久政の首は、朝倉義景と同じく、京都で獄門にさらされました。

 

また、長政の息子「万福丸」も、関ヶ原で磔、親族の浅井亮親らも処刑されました。

 

朝倉義景、浅井長政、浅井久政の頭蓋骨は、をまた、長政・久政の頭蓋骨に金箔と漆を塗って、宴の肴にしたというエピソードは、有名ですね。

 

これにより、さらに、信長の残虐さや、狂気ぶりに家臣たちも震え上がったとのことです。

 

そりゃ、そうですよね。^^;

 

しかし、これには、朝倉義景、浅井長政、浅井久政への敬意の念があり、元号を元亀から天正に変え、清めの場で、菩提を弔い、織田家の新たな出発を意味したということらしいですよ。

 

お市の方や娘たちはどうなった?

お市の方と娘たち、浅井三姉妹は、信長のもとに戻りました。

 

しかし、お市の方も、娘たちも、その後は、数奇な運命をたどっていくことになるのです。

 

信長が本能寺に倒れると、お市の方は、信長の重臣である「柴田勝家」と再婚します。

 

その後、柴田勝家が豊臣秀吉に賤ヶ岳の戦いで破れ、お市の方は、柴田勝家とともに、自害して果ててしまうのです。

 

長女の茶々は、豊臣秀吉の側室になり、豊臣秀頼を産みます。

 

次女の初は、京極高次の正室となり、戦国最後の戦となった、大阪冬の陣で、徳川方と豊臣方の和睦を実現させるために奔走するのです。

 

三女のお江(ごう)は、恐妻と恐れられた、徳川秀忠の正室となり、徳川3代将軍・徳川家光を産みます。

 

お江の娘、勝姫の子孫は、大正天皇の貞明皇后であり、昭和天皇の母でもある人です。

 

このように、浅井長政と織田信長の妹・お市の方の娘たちが、織田家と浅井家の血を後世まで伝えていくのです。

 

なんとも、ロマンじゃないですか。^^

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

今回は、小谷城の戦いを、姉川の戦いからの経緯としてまとめてみました。

 

小谷城の戦いによって、信長はさらに苦境に陥り、ついには、本能寺の変で明智光秀に攻められてしまいます。

 

そして、豊臣、徳川の時代へと流れていきます。

 

この流れの中心には、織田家、浅井家の血が受け継がれていくのです。

 

なんとも、すごいじゃあないですか。^^

 

それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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 - 戦国時代, 浅井長政, 織田信長