小田原征伐のきっかけとは?名胡桃城攻めに見る北条の浅はかさ

      2017/09/06

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九州征伐に続いて行われた「小田原征伐」。

 

豊臣秀吉の天下統一への最終仕上げとして有名ですね。

 

武田信玄や上杉謙信でさえも落とすことの出来なかった難攻不落の小田原城。

 

北条早雲から100年続いた戦国の名門・北条氏(後北条氏)が、豊臣秀吉によって、滅亡させられました。

 

そのきっかけは、北条家の家臣たちが起こした、ちょっとした事件だったのです。まさか、家臣たちも、そのことで、北条が滅亡するなんて夢にも思っていなかったでしょうね。^^;

 

そこに目をつけた秀吉のすごさなんでしょうけど、北条方があまりにも浅はかだったなと思えて仕方ありません。もう少し、家臣たちにも教育できていれば、また違った展開になっていたでしょうに。^^;

 

では、小田原征伐につながるきっかけとなったちょっとした事件とは何だったのでしょうか?

 

なぜ、起きてしまったのでしょうか?

 

今回は、小田原征伐が起こったきっかけについて、見ていきましょうね。^^

 

 

沼田を巡る争奪戦

沼田という要衝

当初、上野の沼田という地に沼田城を築いたのは、沼田顕泰という人物でした。

 

この沼田という地は、北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点だったのです。

 

ですので、上野周辺の上杉、武田、北条は、沼田が欲しくて、度々争っていました。

 

北条のものになったり、上杉のものになったりしていましたが、武田のものになる番がやってきました。

 

武田勝頼は、真田昌幸に沼田城攻略を命じたのです。

 

そして、昌幸の調略や、叔父である矢沢頼綱の沼田城攻めによって、沼田城は落ち、無血で開城されたのです。これによって、沼田は武田の支配下になったのです。

 

それ以降は、矢沢頼綱が沼田城主となります。

 

しかし、武田が滅亡すると、また状況が一変してしまうのです。^^;

 

沼田をやっとの思いで、攻略したかと思えば、武田氏滅亡の功績によって、織田信長の家臣・滝川一益が沼田の地を治めることになってしまったのです。

 

しかし、またまた状況が変わります。

 

信長が、本能寺の変で倒れ、またまた、真田に沼田を奪還するチャンスがやってきます。

 

天正壬午の乱という戦で、徳川、北条をはじめ、上杉、真田などの国人衆が旧武田の領地を奪還すべく争いが起こり、この戦によって、沼田は、真田が取り戻したのです。

 

沼田は誰のものか?

しかし、北条は諦めきれずにいました。

 

北条は、「沼田は俺たちのものだから返せ」と喚き出します。

 

北条は、同盟を結んだ徳川家康に相談し、徳川についている真田昌幸に、「何とか沼田を返してくれと言ってくれないか?」と頼みます。

 

これに、家康は、承諾してしまうのです。

 

家康は、昌幸に、沼田は、北条のものだから、返しなさいと命令します。

 

これは、昌幸も承諾しかねて、徳川を見切り、上杉景勝を頼るのです。

 

これによって、真田昌幸と徳川家康の戦いである、第一次上田合戦につながっていくのです。

 

第一次上田合戦(神川合戦)が起きた理由とは?徳川はなめていた?

 

その後、この沼田問題は、ずっと尾を引いていくことになり、うやむやな形でした。

 

沼田問題の解決策「所領分割」

うやむやだった、沼田問題を解決したのは、豊臣秀吉でした。

 

秀吉は、なかなか軍門にくだらない、北条氏政・氏直父子に、この沼田問題を解決してあげれば、北条は、上洛すると考えたのでした。

 

この解決策というのが、沼田城を含む、3分の2を北条に、残りの3分の1を真田にというものでした。

 

一応は、これで双方納得し、これをもって、いったんは解決したのです。

 

ちなみに、真田昌幸側の沼田には、名胡桃城(なぐるみじょう)があり、この城が、小田原征伐のキーとなるのです。

 

小田原征伐のきっかけとは?

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名胡桃城とは?

名胡桃城は、沼田城の支城として、沼田の地にありました。

 

真田昌幸が沼田城を攻略するときに、名胡桃城主・鈴木重則が降伏し、真田の家臣となったのです。

 

それ以降、鈴木重則(鈴木主水)は、真田の城代として、名胡桃城を守っていくのです。

 

名胡桃城攻めとは?

秀吉によって、沼田問題が解決され、北条方と真田方双方でそれぞれの城を治めていたのです。

 

しかし、北条方は、沼田が半端に北条にあるのを面白く思っていなくて、残りの名胡桃も手に入れたいと思うようになります。

 

それをやってしまったのが、北条家の家臣・猪俣邦憲でした。

 

北条氏政・氏直の命令によってではなく、独断で名胡桃城を攻めたと伝わっています。

 

まあ、のちのち、北条氏政・氏直もこの行動を認めたようですが、事の発端は、猪俣邦憲の私利私欲だったのです。

 

手柄にして、恩賞に預かろうと思ったのかもしれませんが、これが浅はかだったのです。

 

もう少し、思慮分別が欲しかったですね。^^;

 

猪俣邦憲は、名胡桃城代の鈴木重則を騙し、名胡桃城を乗っ取ってしまうのです。

 

このことを知った秀吉は、これは、惣無事令に反することだと激怒し、いっこうに上洛しない北条を成敗する恰好の理由を得たのでした。

 

惣無事令とは、大名同士の領土争いの戦を禁止するというもので、違反した場合は、それなりの処罰を与えるというものでした。

 

これに照らして、この名胡桃城の事件を処罰しようとしたのです。

 

この処罰こそ、小田原征伐なのです。

 

北条氏政・氏直父子は、一家臣の失態によって、100年も続いた名門・北条を潰すことになってしまったのです。

 

その当初は、思ってもみなかったでしょうね。^^;

 

残念で仕方がありませんよ。

 

この名胡桃城攻めをきっかけとして、秀吉は、北条を倒す大義名分を得ることができて、諸将に小田原に参陣するよう触れを出すのです。

 

その数、20万を超える大勢力だったそうです。

 

それに対して、北条は、3万程度の軍勢だったとか。

 

武田氏の場合もそうですが、なんとも、名門の家が滅亡するのはなんとも寂しいものですね。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

今回は、小田原征伐のきっかけについて、まとめてみました。

 

このあと、秀吉のもとに各地の武将たちが駆けつけます。

 

小田原城を囲み、籠城戦へともちこみます。

 

3ヶ月持ち応えはしましたが、とうとう落城。

 

氏政は弟の氏照とともに、自刃させられ、氏直は、高野山へ配流となりました。

 

ここに北条氏は滅亡します。

 

なんとも寂しい感じがします。

 

ですが、その子孫は、江戸時代も河内の「狭山藩」の藩主として、その家系をつないでいったのです。

 

なんとも面白いですね。^^

 

それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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