京都の大仏とは?いつ誰が建てた?奈良や鎌倉よりも高い理由は?

      2017/10/18

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あなたは、大仏といえば、どこの場所を思い浮かべるでしょうか?

 

恐らく、大半の方が、奈良か鎌倉を思い浮かべると思います。^^

 

僕もそうです。^^;

 

しかし!

 

奈良と鎌倉以外にも大仏様はあったのです!

 

しかも、昭和48年(1973年)まで!

 

それは、京都の大仏でした。

 

しかも、奈良と鎌倉の大仏よりも高い、まさに日本一の高さを誇る大仏様だったのです。

 

いったい、この大仏様を誰が建てたのでしょうか?

 

また、なぜ、奈良や鎌倉の大仏よりも高かったのでしょうか?

 

今回は、京都の大仏とは?について、簡単にわかりやすくまとめてみますね。

 

どうぞ、ごゆっくりおくつろぎ下さいね。^^

 

京都の大仏とは?

いつ誰が建てた?

京都の大仏は、京都の方広寺(現・京都市東山区)に存在した大仏さんです。

 

京都の大仏は、豊臣秀吉によって、建てられました。^^

 

最初に秀吉が建立してから、地震や火災などにより、倒壊や消失を繰り返し、4代目まで造られましたが、昭和48年(1973年)に消失してからは再建はされず、現在は、京都の大仏は存在しないのです。

 

豊臣秀吉は、天正13年(1586年)に発生した「天正地震」をきっかけに、奈良の東大寺にならって、東大寺に負けないような規模の大仏を建立することを思いつきます。

 

大仏を安置する大仏殿と大仏の建立計画を立て、造営を始めたのです。

 

そして、文禄4年(1595年)に、ほぼ大仏殿と大仏が完成しました。

 

当時の大仏は、高さが19mあり、木製金漆塗坐像大仏だったのです。

 

ちなみに、奈良の大仏は、15m、鎌倉の大仏は、11mですので、かなりな高さであることが分かると思います。

 

奈良の大仏と鎌倉の大仏に、京都の大仏を含めて、「日本三大大仏」と呼ばれていますよ。

 

豊臣秀吉による初代京都の大仏はどうなった?

秀吉が建立した、京都の大仏は、開眼を迎える前に、慶長元年(1596年)の慶長伏見地震によって倒壊してしまうのです。なんとまあ。^^;

 

秀吉は、壊れてしまった大仏を嘆き、大仏の眉間に弓を放ち、「おのれの身さえ守れないのか」と激怒したというエピソードがあります。

 

秀吉が弓?って感じですけどね。^^;

 

でも、いずれにしても相当ショックだったことでしょう。

 

その後、秀吉は、大仏の開眼法要の前に亡くなってしまうのです。

 

大仏がいない大仏殿で開眼法要が行われたそうですよ。なんとも寂しいじゃあないですか。^^;

 

ということで、そのあとは、息子の秀頼が、秀吉の遺志を継ぎ、大仏建立を再開するのでした。

 

豊臣秀頼による二代目京都の大仏

 

秀吉が亡くなり、そのあとの豊臣は息子の秀頼が継いでいます。

 

そして、大仏の建立を再開するという秀吉の遺志も継いだのです。

 

2代目大仏は、片桐且元を中心に計画が進められ、木製ではなく、銅製で造営されました。

 

しかし、今度は、慶長7年(1602年)に、鋳物師(いも-じ)の過失により仏像が溶けてしまい、それがもとで出火し、大仏殿ごと炎上してしまったのです。

 

ただ、これは、放火だったとも伝わっていますが、どうなのでしょうね?

 

いずれにしても、また大仏が失くなってしまったのです。なんとも悲運ですよね。

 

なんとか、慶長13年(1608年)に大仏殿と大仏の再建にとりかかれることになったのです。これには、徳川家康も諸大名に費用の負担を命じ、家康自身も、コメや大工などを送り協力していたのです。

 

そして、慶長17年(1612年)に大仏殿と大仏が完成し、やっと2代目大仏が誕生したのです。^^

 

慶長19年(1614年)に梵鐘(ぼんしょう)が完成しますが、梵鐘の銘文について、家康より「不吉な語句がある」といちゃもんが付けられてしまうのです。

 

これが、のちの「方広寺鐘銘事件」になるのです。

方広寺鐘銘事件とは?大坂冬の陣が起きた理由もわかりやすく解説!

 

そういえば、そういう事件があったなと、なんか結びついた気がしますね。^^

 

それはそれとして、この事件は、家康が、豊臣を滅ぼすためのこじつけでもありましたが、このことで、片桐且元は追い込まれ、やがては、豊臣を出奔し、家康に味方し、大坂城の重要な秘密情報を漏らしてしまうのです。

 

なんとも、内から崩壊とはこのことですよね。^^;

 

3代目の京都の大仏は?

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3代目の大仏は、2代目の大仏が、寛文2年(1662年)の地震によって壊れ、また木造で造り直されることになったものです。

 

この時の高さも19mだったと伝わっています。

 

ちなみに、壊れた2代目の大仏の銅は、寛永通宝の鋳造に用いられたそうです。有効活用ですね。^^

 

そして、寛政10年(1798年)には、大仏殿に雷が落ち、消失してしまうのです。

 

なんとも、災難が続きますね。^^;

 

4代目の大仏は?

そして、天保年間(1843年ころ?)に、現在の愛知県の有志たちが、規模の小さな大仏を造営し、それを寄進します。それが4代目の京都の大仏となったのです。

 

しかし、この4代目も、昭和48年(1973年)に火災によって消失し、それ以降は、現在に至るまで、再建はされていないのです。

 

そのため、現在は、奈良の大仏と鎌倉の大仏だけの印象なのです。

 

京都の大仏が奈良と鎌倉の大仏より高かった理由とは?

豊臣秀吉が、奈良の大仏よりも規模の大きな大仏を造りたかったというのがその理由と思います。

 

天下人として、威厳を示すために、奈良よりも高く大きく、造りたかったのかなと僕は思います。

 

その壮大さを今では見れないのが残念ですね。^^;

 

京都の大仏の現在は?

(大仏殿跡緑地(方広寺) 出典:wikipedia

 

今は、鐘銘事件のもとになった梵鐘が吊られた鐘楼と、石塁や石塔があります。

 

また、大仏殿の台座があったとされる場所は、「大仏殿跡緑地」として整備されています。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

今回は、京都にもあった?京都の大仏について簡単にまとめてみました。

 

意外と知らない人も多かったのではないでしょうか?

 

でも、家康がいちゃもんをつけた「方広寺鐘銘事件」は、大阪夏の陣への序章として、わりと有名な事件ですから、そこと結びつければ、そうか、これが京都の大仏のことだったのかとつながると思います。

 

秀吉の威厳を見せた京都の大仏。

 

奈良の大仏をもしのぐ巨大な大仏でした。

 

いつか、再建されないかなと密かに楽しみにしています。

 

できたらいいですよね。^^

 

それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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