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小田原城の歴史を簡単に!北条が残した総構が際立つ名城! | 日本の歴史わかりやすくもっと知りたい!
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小田原城の歴史を簡単に!北条が残した総構が際立つ名城!

      2017/10/15


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今回は、北条氏の居城として有名な、小田原城を取り上げます。^^

 

小田原城は、全国でも珍しい戦国期と江戸期の城が異なる城でも知られています。

 

また、武田信玄や上杉謙信でさえ、落とすことのできなかった難攻不落の城としても有名ですね。そして、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて築いた「総構」は、秀吉も度肝を抜かれたそうですよ。^^

 

この総構は、北条時代の遺構として、今でもその壮大さを伝えてくれます。

 

 

では、難攻不落だった、この小田原城には、どんな歴史があったのでしょうか?秀吉をも驚かせた総構は、どのようなものだったのでしょうか?気になりますね。^^;

 

ということで、小田原城の歴史を簡単にわかりやすく、お伝えしていきますよ。

 

そして、ぜひ、小田原城に足を運んでみてくださいね。^^

 

小田原城の基本データ

まずは、小田原城を簡単におさらいしてみましょうね。^^

 

以下に簡単にまとめてみましたよ。

 

小田原城の基本データ

小田原城の基本データはこんな感じです。^^

別名 小峯城(小峰城)、小早川城(小早川館)
城の構造 平山城
天守の構造 複合式層塔型3重4階(1633年 築)
(1706年 再)
(1960年 RC造復興)
建てた人 大森頼春
直した人 上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
建てた年 1417年(応永24年)
主な城主 後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、土塁、水堀、空堀、大堀切、土塁、郭、障子堀跡

出典:wikipedia

 

小田原城の勲章

小田原城は、小田原城跡として、国の史跡に指定されています。

 

その後も、範囲は拡大され、現在では、小田原市城内・本町・栄町・浜町・城山・板橋・十字・谷津・南町にも及んでいるそうですよ。^^

 

また、日本の100名城にも指定されています。

 

さらに、小田原城をグルッと囲む総延長9kmにもおよぶ堀と土塁からなる壮大な「総構」は、秀吉の小田原攻めに備えて築かれた遺構です。

 

北条氏が現代に残した遺構として、戦国時代における防御法の秀作と言えるものなのです。^^

 

今でも、総構の跡地である、小峰御鐘ノ台大堀切、早川口付近の二重土塁、蓮上院土塁などがあり、堀底を歩くことができるそうですよ。

 

特に、小峰御鐘ノ台大堀切の景観は圧巻で、幅が最大25m、高低差が12mにもなるおすすめスポットですよ。^^

 

昭和35年には、天守閣が復元され、また、耐震強化の工事や屋根の修復などが行われていましたが、2016年以降は、天守閣に入館できるようになっています。

 

天守からは、小田原落城のきっかけとなった、秀吉が一夜にして建てたと言われる笠懸山の「石垣山城」がよく見えるそうです。^^

 

小田原城の歴史とは?

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それでは、小田原城の歴史を簡単にわかりやすくまとめてみました。^^

 

小田原城の築城はいつ?誰が建てたのか?

小田原城のもとは、平安時代の末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館であったと伝わっています。

 

そんな昔からあったんですね。^^;

 

その後、室町時代の後期に、扇ヶ谷上杉家(おおぎがやつうえすぎけ)の家臣・大森氏が小田原を治めるようになり、その頃、大森頼春が戦国時代の小田原城として築城されたようですが、はっきりとはしていないようです。^^;

 

はっきりと、小田原城として拡張して居城としたのが、後北条の祖である、北条早雲でした。

 

この北条早雲という人物。

 

伊勢新九郎盛時」としてもおなじみで、戦国時代を表す「下剋上」といえば、北条早雲というイメージが強い方も多いと思います。^^;

 

僕も、下剋上という言葉から連想される最初の人物は、やはり、北条早雲ですもの。^^;

 

この北条早雲が、駿河の今川に仕え、伊豆に進出し、伊豆を治める大名になります。

 

その後、相模の小田原に領土を拡大し、やがて相模一国を手中に治めていくのです。

 

明応4年(1495年)、北条早雲は、小田原城を奪取し、小田原城を拠点とするようになります。

 

北条氏が目指したもの

後北条の初代として、北条早雲は、関東一円を、政治、経済、産業、文化のあらゆる中心とする理想を掲げていました。

 

それを2代・北条氏綱、3代・氏康が着々と受け継ぎ、小田原を発展させていくのです。

 

その間も、北条氏は、領土を拡大させ、4代・氏政、5代・氏直の時代には、上野、下野、上総、下総まで、ほぼ関東一帯を北条の領土としていき、基盤を磐石なもとにしていったのでした。

 

小田原征伐

しかし、豊臣秀吉が四国や九州を平定し、ほぼ天下を統一するあと一歩のところまで来たときに、頑として、秀吉に下ることを拒否した4代・北条氏政。

 

この氏政、そして息子の5代・氏直によって、小田原城に陰りが見え始めていくのです。

 

豊臣秀吉が攻めて来てもいいように、小田原城を囲む強力な防御策として、総延長9kmにもおよぶ堀や土塁で作られた「総構」を築くのです。

 

最初、秀吉も、この総構に驚き、さすが、北条と思ったことでしょうね。^^

 

しかし、不運にも、小田原城を全方位から秀吉方に囲まれ、最後は、一夜にして出来たと言われる「石垣山城」を築き、宴会などしながら、「こっちは、遊んでるんだぜ~」と余裕をみせながら、北条に圧力をかけて、ついには、氏政・氏直父子が降伏することになります。小田原城は、秀吉によって、落城したのでした。

 

信玄や謙信も落とせなかった、難攻不落の小田原城を秀吉は、落城させたのです。

 

さすが、鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギスの男ですね。^^;

 

落として見せましたよ。

 

その後の小田原城は?

小田原城が秀吉のものとなり、秀吉は、北条の領土を徳川家康に与えました。

 

そして、小田原城主に、家康家臣の大久保忠世を置いたのです。

 

その後も、阿部正次、稲葉正勝、大久保忠真など徳川譜代の家臣が小田原を統治していくことになるのです。

 

ちなみに、大久保忠世は、巨大な小田原城を縮小させ、現在の小田原城の位置に、建て直したのだそうですよ。そのため、北条の居城としていた小田原城と、大久保忠世以降の城主が建て直した小田原城は別物になっていきました。

 

稲葉正勝が城主だったころに発生した、寛永の小田原大地震により、小田原城は壊滅的な状態になってしまい、その修復に50年もかかったらしいです。

 

そうして、小田原城、小田原城下の城下町は復興され、箱根の関所を要する関東の防御の要となり、幕末まで続くのでした。

 

小田原城のアクセス情報

それでは、小田原城の場所やアクセス方法、気になる駐車場などをわかりやすく、まとめてご紹介します。

 

住所 神奈川県小田原市城内6番1号
交通アクセス 【電車】

JR小田原駅から徒歩10分

【車】

小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分
西湘バイパス「小田原IC」から約5分
東名高速道路「大井松田IC」から約40分

駐車場 周辺に有料駐車場あり 小田原城址公園には駐車場なし
お問合せ 0465-23-1373 小田原城総合管理事務所
入場料 天守閣:一般 500円、小中学生 200円

常盤木門と天守閣共通券:一般 600円、小中学生 220円

常盤木門と小田原城歴史見聞館と天守閣:一般 700円、小中学生 250円

 

<MAP>

まとめ

小田原城はいかがでしたでしょうか?

 

名門・北条氏が誇る、名城、小田原城。

 

北条氏が滅亡し、その後が気になっている人もいるかと思います。

 

安心してください。^^

 

北条の子孫は、河内の国の狭山藩の藩主として、生き残っていきます。

 

その初代藩主・北条氏盛の父・北条氏規は、北条氏政の弟で、5代・氏直が高野山に配流になったときに、一緒に高野山に付き従った人物です。

 

しかし、北条氏規は、豊臣方につくべきと氏政を説得し続けていた人物でもあり、その功を認められ、狭山城主として、北条を復活することを許されたのです。

 

そして、氏規の息子である氏盛が家督を継ぎ、狭山藩の藩主として、北条の血を受け継いでいくのでした。^^

 

そんな、北条の息吹をぜひ堪能してみてはいかがでしょうか?

 

それでは、今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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