北条氏政とはどんな人物だったか?汁かけご飯の逸話とは?
2017/09/08
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小田原城を居城として、北条早雲から100年続いた名門・北条氏(後北条氏)。
豊臣秀吉の小田原征伐によって、小田原城は落城し、北条家も滅亡となりました。
その張本人であった、北条氏政。
彼は、いったい、どういう人物だったのでしょうか?
凡人が故に北条を滅亡に導いてしまったのでしょうか?
今回は、北条氏政をとりあげ、その生涯を簡単にわかりやすくまとめてみましたよ。^^
ぜひ、ご覧くださいね。
北条氏政の出自は?
(北条氏政 出典:wikipedia)
「北条家3代・北条氏康」、今川氏親の娘「瑞渓院(ずいけいいん)」の次男として、北条氏政は、天文7年(1538年)に生まれました。
氏政の兄である新九郎が夭逝したため、氏政が嫡男を引き継ぎ、「北条新九郎氏政」と名乗っていたそうです。
ちなみに、母の父である今川氏親(うじちか)は、桶狭間で織田信長に破れた今川義元の父でもあります。さらに、後北条氏初代の北条早雲の甥にあたる人物なのです。
この今川氏親の「氏」の字を代々の北条家当主が受け継いだそうですよ。^^
ということで、北条氏政もこの「氏」の字をもらって、氏政となったのです。^^
氏政の正室は、武田信玄の娘「黄梅院(おうばいいん)」で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟でもありました。
今川、武田、北条の三国同盟が結ばれ、基盤を固めるために、氏政の正室として、信玄の娘「黄梅院」が迎えられたのです。夫婦仲はよかったようですよ。^^
これによって、北条の基盤は磐石なものとなっていったのです。
ちなみに、瑞渓院を母とする氏政の弟には、小田原城の支城を守る、三男・八王子城主の北条氏照、四男・鉢形城主の北条氏邦、五男・三崎城主の北条氏規がいました。
この弟たちも氏政に引きづられ、数奇な運命をたどっていきますね。^^;
なにより、鉢形城主・北条氏邦の家臣である猪俣邦憲が、真田昌幸の領地にある名胡桃城を奪い取ったことをきっかけとして、とうとう小田原征伐に発展させてしまうのですから。
氏邦は、小田原征伐勃発の張本人と言えるでしょう。^^;
また、氏規は、秀吉に下り、のちに、河内国の狭山藩という小国の藩主として、唯一北条家の血統を後世につないだ功労者なのです。
そして、氏照は、氏政とともに、小田原征伐で処刑され、自害させられる運命になるのです。
ちなみに、氏政は、北条家4代、息子の氏直が5代になります。
この北条家4代、5代当主である氏政・氏直父子が北条家滅亡に大きく関わるのです。
汁かけご飯の逸話とは?氏政は凡人だった?
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有名な逸話ですが、どのような内容かといいますと。
北条氏政は、毎日、ご飯に味噌汁をかけて食べていたそうです。
いつも、ご飯にかける味噌汁の量が少なくて、何回か汁をかけ直していたとのこと。
これを父・氏康が見て、
「毎日の食事であるにも関わらず、ご飯にかける汁の量がわからないとは・・・。北条も終わったな、はぁ~」
と嘆いていたそうなのです。^^;
また、
農民が麦を刈っている様子を見て、「あの採れたての麦を昼ご飯にしよう!」とせがんだそうです。採れたての麦はすぐ食べることはできず、手間ひまをかけなければならないのですが、それを氏政は知らなかった。
というものです。
これらの逸話から、氏政は凡人だったと言われることが多いですが、本当にそうなのでしょうか?
実は、氏政は、父・氏康に劣らず、領土拡大を成し遂げているのです。
武田信玄・勝頼、上杉謙信・景勝、徳川家康といった強力な勢力の間にいながら、対等に北条を守り抜き、氏康の時代には、武蔵、上野の一部までだった領土を、上野、下野、上総、下総と関東の大半を支配するまでになっていたのです。
凡人では、できないことですよね。^^;
では、なぜ、北条は滅亡してしまったのでしょうか?
時代を見抜けなかった氏政のプライド
北条の滅亡に関わるキーは、氏政のプライドだと思います。
信玄、謙信、信長亡き後、時代は、秀吉のものになりつつありました。
それを見抜いた有力武将たちは、秀吉の軍門にくだり、続々と所領安堵をなしとげていたのです。
秀吉に歯向かう大名はことごとく潰され、四国の長宗我部、九州の島津などもついには、秀吉に下るのです。
上杉や徳川も豊臣の臣下になっても、頑なに、秀吉に下るのを拒んでいたのが、北条氏政だったのです。
とりあえず、奥州の伊達政宗などもまだこのころは、秀吉に下っていない大名もいますが、奥州仕置によって、最終的にはくだりますけどね。^^;それは、また別の機会にでも。
奥州を除いた有力大名で、頑なに拒否していたのが、北条だったのです。
氏政は、「秀吉ごとき、百姓上がりの成り上がりものに頭を下げられるか!」と秀吉をずっと、なめていたのです。
なめていたのには、理由がありました。
それは、武田信玄、上杉謙信も小田原城を攻めてきたとき、落とすことができず退却した実績があり、難攻不落の城で守りは鉄壁ということと、同盟している徳川家康や伊達政宗が援軍に駆けつけてくると思っていたからでした。^^;
ここに、名門・北条という関東一帯を治める大大名のプライドが邪魔してしまいました。
既に、家康は秀吉の臣下になっていたし、政宗も秀吉に付かざるを得ないと思い、死装束で臨むますし、援軍に来ることはなかったのです。
また、難攻不落の城でも、22万と言われる秀吉軍の大軍勢に小田原城が囲まれれば、さすがの小田原城も耐えられるのかどうか気になると思うのですが、それでも、氏政は、大丈夫だとのんきにしていたようですよ。^^;
少しだけでも、秀吉の臣下になることで、北条家を守れると思えれば、きっと、後世も上杉や毛利のように、続いて行ったと思うのですが、どうでしょうね?
かくして、北条は、籠城戦にもちこみますが、秀吉とっておきの策である、一夜城「石垣城」の完成により、北条に大きなプレッシャーを与えることに成功し、籠城から3ヶ月で、北条氏政・氏直父子は、降伏したのです。
北条氏政の最後は?
北条氏政。氏直父子の降伏により、小田原城は落城し、北条氏は滅亡することになってしまったのです。
そして、北条氏政は、弟・氏照とともに自刃。
氏直は、高野山へ配流となりました。
氏直は、翌年、高野山で亡くなったと伝わっています。
高野山には、一緒に、氏政の弟・氏規も同行していました。しかし、秀吉に下ることを主張していた氏規は許され、やがて、河内国・狭山城の城主として北条の復活を認められたのでした。
そののち、徳川家康の時代になり、狭山藩となり、代々、北条氏規の子孫が藩主を務めていくことになるのです。
氏規の忠告を早くから氏政が聞いてくれいればよかったのにと思えてなりませんね。^^;
まとめ
いかがでしたでしょうか?
関東の大大名である名門・北条氏が100年の歴史にピリオドを打つことになった小田原征伐。
そのきっかけは、やはり、北条氏政のプライドの高さだったのではないでしょうか?
名門が故の、高いプライドを捨てきれず、ついには、滅亡の道へ向かってしまったのです。
ですが、氏政にしてみれば、本望だったのでしょうかね?
秀吉ごときに従うなら、死んだほうがましと思っていたかもしれません。
ですが、名門であるがゆえに、たくさんの家臣たちのことも考えてほしかったなと思うのです。武田家も同じですけどね。^^;
まあ、氏政は無念だったかもしれませんが、本望だったと思いましょう。^^
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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