石田三成柿のエピソード(逸話)はガセ?細川忠興と最悪の関係

      2017/08/07

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石田三成には、数々の名言やエピソードがありますが、柿のエピソードや逸話は割と有名なようですね。

 

細川忠興と仲が悪かったけど、仲直りするために、忠興が柿が好物だと知って、仲直りのために、三成が忠興に柿を差し出したが、これが忠興の逆鱗に触れ、さらに関係が悪化してしまったというやつです。

 

これは、三成のコミュニケーション能力のなさをアピールしたような逸話ですよね。

 

しかし、これはどうやら、ガセではないかという評判が多いのです。

 

なぜ、細川忠興が激怒したのか?いつころから、仲が悪かったのか?そして、三成はどうして、忠興と仲直りしたかったのでしょうか?そして、柿のエピソードがガセなのか?そのあたりを調べてみましょうね。^^

 

石田三成の柿のエピソード(逸話)はガセなのか?

関ヶ原の戦いに敗れ、六条河原で処刑される直前で柿を出され、それを断ったという逸話は、石田三成最後の1日の言葉とは?名言から見る忠義の姿でご紹介していますので、そちらをご参照くださいね。

 

今回のエピソードは、細川忠興と仲直りしたくて、三成がとった行動の逸話のことです。

 

どういう逸話かというと、

 

三成は、細川忠興との仲を気にしていた。あまりにも仲が悪いので、なんとかして仲直りがしたいと思ったそうです。

 

そこで、三成と同じ五奉行の前田玄以に、何かいい案はないかと相談した結果、細川忠興と一席設け、忠興の好物でもてなすことで仲直りのきっかけをつくろうということになったのだそうです。^^

 

ようやく、念願の一席を設けることに成功した三成でしたが、いざ、忠興の好物を差し出し、「遠慮はいらん、食え。お主の好きな柿である。俺のことは気にするな!」というニュアンスでその「」を差し出したのだそうです。

 

これに「カチン」と来た忠興が、激怒して帰ってしまった。三成は、なぜ帰ってしまったのか分からないでいた。そして、それを見ていた玄以は、そのやり方はないだろう^^;と呆れてしまった。

 

というような内容です。

 

この逸話どうでしょうか?

 

ご存知の方はもしかすると多いのかもしれません。

 

確かに、大河ドラマ・真田丸「第33回 動乱」でも、忠興のもとに三成が手土産として「干し柿」を持参し、一席?のような席での場面がありました。

 

ですが、このドラマでのやりとりは、仲直りをしたいという理由ではなく、家康と戦うための味方があまりいない状況に焦り、どっちつかずの忠興を味方に取り込もうと考えての行動でした。

 

ですから、出された柿を食べただろうし、激怒して帰ってしまったということもありませんでした。ただ、これをきっかけに(というか、最初から忠興は家康につこうと思っていたと思いますがね^^)、忠興は家康につくことを決意します。

 

ドラマだから脚色してあるのは当然としても、ドラマのほうが真実味がありますよね?

 

第一、三成が、純粋に仲直りしたいと思ったかどうかが疑問だからです。三成の性格を考えれば、向こうから仲直りに来るならいざ知らず、自分から仲直りなどする必要がない!と思ったのではないかと思うのです。

 

そのほうが三成らしい?^^;

 

まあ、三成のコミュニケーション能力のなさをアピールしたかったのかどうかは分かりませんが、どっちにしても、手土産に「干し柿」だけというのも、三成なりの最大限の相手への敬意の示し方だったのでしょうね。

 

三成のまっすぐな思いというか、人間付き合いの下手さ加減がよく現れたエピソードではありますけど・・。

 

 

ということで、このエピソードは、面白おかしく、三成のダメさ加減を誰かが作り上げたのだと思いますが、どうなのでしょうね?

 

 

細川忠興が石田三成を憎んでいた?それはなぜ?

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細川忠興は、2つの事件をきっかけに、石田三成を心底恨むようになったと言われています。

 

1つ目は、豊臣秀次の自害

 

2つ目は、千利休の自害です。

 

秀次の自害は、もともと、謀反の疑い有りとして、三成が、処罰を行ったのがきっかけです。

 

もちろん、秀次には、野心などありません。秀吉に認められようと必死だったはずです。ですから、謀反の疑いをかけて、秀吉の後継として、秀頼を確実にするための策略だったと思います。

 

その時に、細川忠興も、秀次の謀反の片棒を担いだと疑われ、あわや処罰を受けるところまでいったのを、家康に助けられたとも言われています。

 

そして、決定的になったのが、千利休の自害です。

 

細川忠興は、千利休の高弟である「利休七哲(りきゅうしちてつ)」の一人だったのです。

 

利休七哲とは、千利休の弟子の中でも、特に優秀な7人を指す呼称のようですよ。忠興の他には、蒲生氏郷もいたそうです。また、織田有楽斎や荒木村重を含めて、利休十哲と呼ぶこともあるそうです。

 

ですので、忠興は、利休を師と仰ぎ、尊敬していたのです。そこに、三成が秀吉をそそのかし、利休を自害に追いやったことから、忠興は、三成のあまりに強引なやり方を決して許すことはなかったのだと思います。

 

単純に、三成が嫌いとか好き嫌いで、家康方についた武将も多くいたと思いますが、細川忠興に関しては、三成への恨みはなくなるはずもなく、三成を討つことが家康に味方することにつながったのだと思いますね。また、細川家として、家を守るためには、三成ではあまりに先行きが不安だということも分かっていたのでしょうね。

 

やがて、秀吉恩顧の武将たちも、三成のやり方に不満をもち、結局は三成を討つため家康方についてしまったのです。

 

そう考えると、三成は、みすみす味方を遠ざけてしまったのです。もう少し、処罰にしても、恩情をもってあたっていれば、関ヶ原の結果は変わっていたかもしれませんね。十分、家康に勝てるだけの戦力はあったのですから。あと一歩、ほかの人への気配りができていればと思えてなりません。

 

豊臣を守ることしか、頭になかったのがなんとも悔しいですね。^^;

 

石田三成は細川忠興と仲直りしたかったのか?

前にも書きましたが、三成は、忠興と仲直りをしたかったというよりは、味方に引き入れたかったという方があっていると思います。

 

細川忠興は、文化人よりな評価が高いですが、武断派としても力があったのです。ですから、その武力を自分の味方にしたかったのでしょう。

 

ですが、結果的には、細川忠興は、三成への恨みを晴らすために、家康につき、東軍として、三成と対戦したのでした。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

三成の柿の逸話について、その信ぴょう性を考えてみました。

 

また、細川忠興との関係についても、調べてみました。

 

人の恨みとは、そう簡単になくなるものではありませんよね?

 

三成なりに頑張ったのかもしれませんが、一般的な人間の感覚として、もう少し、気を遣えよ!って思ってしまいます。ですが、当の三成は、最大限気を遣っていたのだと思います。

 

そこの感覚が、純粋すぎたのでしょうね。そこが、熱い忠義の男・石田三成の魅力でもあるのですがね。^^

 

それでは、今回もありがとうございました。

 

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