石田三成最後の1日の言葉とは?名言から見る忠義の姿

   

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石田三成は関ヶ原の戦いに敗れて、伊吹山中に逃げ込みます。

 

居城であった佐和山城に戻り、体制を立て直して、再起を図るつもりだったと言われています。しかし、戻る途中、向かったのは、佐和山ではなく故郷の長浜だったのです。

 

家康の軍勢に捕まらないように、木こりのようなカッコをしながら無我夢中で駆け抜けた6日間

 

結局は、三成は捕らえられ、家康のいる近江大津城に護送されます。捕まってから処刑されるまでの間、三成は、決して家康に屈することなく、豊臣への忠義を徹底して貫きます。

 

死を迎える最後の1日、三成はどんな思いで処刑に臨んだのでしょうか?そのときの名言とはどのようなものだったのでしょうか?

 

石田三成が捕らえられた時の言葉・名言とは?

三成は、故郷の長浜の小さな村(旧古橋村:現在の滋賀県長浜市木之本町古橋)の「オトチ岩窟」というところに隠れていたそうです。

 

これは、百姓の与次郎太夫という人物が、以前、三成に飢饉を救ってくれた恩に報いるために、必死に匿ったというエピソードがあります。

 

しかし、それも長くは続かず、とうとう捕まってしまったのです。

 

そして、家康のいる近江大津城に引き出されたのですが、そのときに、家康の家臣から、こう言われたそうです。

 

家臣「ふつう、自害するんじゃねーの?なんで自害しねーのよ。」

 

三成「自害するのは雑兵がすることだ!おれは大将だ!大将はなんとしてでも逃れて再起を図るものだ。おまえ知らねーの?」

 

言葉遣いは悪いですが、案外、こんな感じだったと思いますよ。お互い、見下しているはずだから^^;

 

このやりとり、なんか無理やりこじつけている気もします。大谷形部なんかは、潔く自害していますしね。なんとか、もっともらしく取り繕う、弁解ともとれるやりとりです。^^;

 

しかし、潔くないというよりは、豊臣を守るのは自分しかいないという思いから、なんとか再起を図ろうと考えていたのではないでしょうかね?

 

ですが、捕らえれてしまい、京都市中を引き回されて、見世物になったのでした。

 

石田三成が死を迎える最後の1日の言葉・名言とは?

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三成の他にも、小西行長や安国寺恵瓊らが捕らえられていました。

 

それで、家康は、敬意を表し、小袖を送ったそうです。

 

しかし、三成は、これを断りました。

 

それは、こんなやりとりだったとのことです。

 

三成「これ(小袖)はどなたからですか?」

 

小袖を届けてくれた人「上様(家康)からです。」

 

三成「何?上様は、秀頼公以外にはいないのだ!なんという無礼な!そんなものはいらん!」

 

と言って、受け取らなかったというのです。

 

まあ、ありそうな話ですよね。三成以外は、誰もが、上様と言ったら、家康だと分かっていたでしょうに。

 

そして、いよいよ処刑されるという時に、三成が白湯を所望します。

 

三成「処理される前に、喉が渇いたので、白湯をもらえないだろうか?

 

処刑担当者「そんなのいますぐには用意できないです。今すぐ用意できるのは、う~ん、あっ!そうそう、干し柿ならありますよ。どうですか?」

 

三成「いやー、干し柿は、痰の毒になるから、結構です。」

 

というやり取りが行われました。有名な逸話ですね。

 

三成が、最後の最後まで、体のことを気にして、体調が悪くなるようなものは食べなかったということです。最後の最後まで、何が起こるかわからないから、体調管理はしっかりしておかないといけないということです。

 

処刑される直前まで、再起して、豊臣を守ろうとした忠義な姿勢が、三成こそ、本物の武士だと評価されるエピソードでもありますね。

 

ですが、武運尽き、京都の六条河原で斬首されてしまいました。享年41でした。

 

関ヶ原の戦いでなぜ西軍は負けたのか?

天下を決める、天下分け目の大戦!のはずだった関ヶ原の戦いですが、わずか6時間で終わってしまいます。当初は、西軍勝利の可能性が高かったはずなのに、なぜ負けてしまったのでしょうか?

 

それは、単に、小早川秀秋の裏切りのためだったのでしょうか?

 

そうではなく、やはり、三成の人望のなさが致命的だったのだと思います。

 

いざという時に、人は、自分のことを守ってくれる人を頼るものです。家康は、そこに目を付け、恩賞をちらつかせながら、巧みに豊臣方を囲い込んでいったのです。

 

つまりは、秀頼のためという大義名分が西軍全軍に浸透させることができなかったことが大きな敗因だったのではないかと思いますね。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

石田三成という人物は、とにかく、豊臣を守るためなら、自分はなんでもする。そういう人物だったと思います。

 

守るためには、死んではなにもできないため、なんとしても生きなければならない。そういう思いから、自害をしないで生き延びる選択をしたのだと思います。

 

そして、豊臣を守るのは自分だけなんだという自負もあったと思います。

 

その強すぎる忠義が、ほかの人を寄せ付けない結果になり、人望が薄かったのではないでしょうか?もう少し、肩の力を抜いて、味方を頼る姿を示せていれば、結果は違っていたと思います。

 

ですが、それができない不器用な人物でしたが、豊臣を守る思いは本物だったと思います。^^

 

それでは、今回もありがとうございました。

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