毛利輝元は無能のふりをした名将だった?評価されるべき点は?

   

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毛利輝元とはどのような人物だったのか?

 

よく「無能」だとか、「愚将」とか言われています。

 

果たしてそうだったのでしょうか?

 

毛利輝元は、関ヶ原の戦いで、西軍の総大将を任せられますが、実際には出陣せず、大阪城で傍観していました。総大将にも関わらず、目立った指示も与えず、ドスっと、腰を下ろしたまま、だまって、関ヶ原の戦いが終わるのを待っていた。挙句の果てには、ブルブル震えていた?そんなイメージですよね。

 

このようなイメージから、輝元は無能か?なにやってんの?となったと思うのです。確かになにを考えているのかイマイチわかりづらい人ですよね^^;

 

果たして輝元は、無能だったのか、はたまた有能だったのか?その評価はどうなのでしょうか?

 

今回は、毛利輝元とはどんな人物で、その評価はどうだったのか?また、本当に無能だったのかについてスポットを当てて、考えてみたいと思います。^^

 

毛利輝元とは?どんな人物だった?

(毛利輝元の肖像画 出典:wikipedia

 

毛利輝元は、三本の矢で有名な毛利元就の孫になります。

 

元就の長男、毛利隆元の長男になるのです。

 

毛利輝元は、天文22年(1553年)に生まれ、寛永2年(1625年)にその生涯を閉じています。

 

享年72ですので、当時としては、長寿だったんですね。^^

 

ちなみに、元就も長寿で、74歳まで生きたそうですよ。さらに、秀吉は、61歳、家康は73歳だったそうです。こうしてみると、秀吉は、若くして亡くなったんですね。^^;

 

輝元の父、隆元は、温厚で弟思いの良き兄だったようです。そして、内政面に手腕を発揮し、元就の勢力拡大に大きく貢献したと伝わっています。

(毛利隆元の肖像画 出典:wikipedia

毛利隆元は、元就の跡を継いで、53代毛利家当主になりますが、元就は引退した後も実権を握っていたため、隆元が毛利家を取り仕切ることはなかったのです。

 

それは、若くして、亡くなってしまったからです。(41歳で亡くなり、死因は食中毒または毒殺と伝わっています。)

 

隆元は、もともと性格の優しい人で、弟である、元就の次男の吉川晃司?^^;ではなく(笑)、吉川元春、三男の小早川隆景の面倒をよく見ていたのです。しかし、同時に、優秀な弟たちと自分を比べて、自己嫌悪に陥っていたのです。

 

隆元「俺なんかより、武力だったら、元春、政だったら、隆景の方が断然上だよな。おれは何て平凡なんだろうか?弟が当主になればよかったのに・・・」

 

といった感じで、弟たちの優秀さをひがんでいたことが多かったようです。

 

性格が繊細だったのでしょうね。

 

これを気にした元就は、当面は、隆元ではまだあぶなっかしいから、自分がバックで支えなければならんかな?と思っていたのかもしれません。

 

しかし、実際には、自分が動きやすくするために、形だけは、息子に家督を譲ったと考える方が自然かもしれないです。

 

このように、先代が実権を握ることはよくありますよね。家康が、早々に将軍職を秀忠に譲ったのも同じような理由からですからね。

 

ということで、隆元は、家督を継いだあとも、実権は元就が握り続けていたこともあり、優秀な弟への嫉妬心ともとれる自己嫌悪に陥っていったのでしょうね。

 

これが、輝元にも引き継がれてしまったような気がします。

 

隆元が亡くなり、輝元が家督を継いだのはいいのですが、結局、吉川元春、小早川隆景の両川が輝元の後見として、毛利家の実権を握っていたからです。

 

輝元は、自分の意志ではなく、いつも叔父である、元春、隆景の言うとおりに、言い方を変えれば、守られながら、過ごしてきたのです。

 

ここに、のちに「無能」と呼ばれる所以があると思っています。^^;

 

つまり、輝元は、元就から数えて3代目の当主で、生まれながらにして、当主が約束された、ボンボンだったのです。ですから、自分で決断することが出来ず、家臣たちに支えられていたのです。

 

ですから、元春、隆景が亡くなったあとは、頼る人もいなくなり、輝元はどうしてよいか分からなくなってしまい、ついには、関ヶ原で石田三成にそそのかされ、西軍の大将に祭り上げられてしまった。

 

という流れがイメージとしてあります。

 

しかし、実は、そうではなく、あえて、何もしないことで、毛利を守ったという見方も出来ると思うのです。

 

毛利輝元はなぜ関ヶ原の戦いで動かなかったのか?

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輝元は、西軍の総大将として、当然、全軍のことを気にしなければならない立場だと思います。しかし、時は、まだまだ戦国なのです。

 

自分の所領を守るのは当主として当然のことだったのです。他はともかく、なんとしても、毛利家を守らなければならないと思ったのだと思います。

 

下手に家康に立ち向かって、所領没収されたり、大名改易されたりしたら、毛利家は取り潰しになってしまいます。

 

家康が、輝元に対して、動かないでくれ、そうすれば、所領は安堵しますよ。輝元さん。という感じで、話を持ちかけて来たために、輝元は、動かなかったのではないかと思うのです。

 

なので、動けなかったのではなくあえて動かなかったと見るのが、実は自然な流れかなと思うのです。

 

太閤秀吉と和平を結び、豊臣のため、秀頼のため、毛利は全力でサポートしますと言っても、危うくなれば、国元が大事なことは明白です。国元あっての大名ですから。

 

ですから、西軍危うしとなれば、あえて、手を出すことはせず、国を守るため、そうそうと引き上げたのでしょう。しかし、逆に、西軍有利となれば、もしかすると、出陣したかもしれませんよ。^^;

 

毛利輝元の評価すべき点とは?

毛利輝元が関ヶ原の戦いで、あえて、出陣をしないことで、家康は、安堵したことでしょう。

 

輝元も、所領安堵で、ホッとしながら、国元である広島に引き上げたと思います。

 

しかし!

 

さすが、たぬきおやじ!^^;

 

見事、所領安堵を反故にします。

 

家康「はぁ~?そんなこと言ったっけ?」

 

輝元「そりゃあないでしょう。家康さん。頼みますよ。」

 

家康「そうは言ってもね、あなたは、西軍大将で、諸大名に西軍参加するようにしていたでしょう?それは、ちょっと、まずかったよね。」

 

といった感じで、当時112万石だった所領を周防・長門37万石に大減封したのです。

 

強引な無理矢理な理由で、家康は、毛利の羽をもぎ取ったのでした。

 

さぞ、家康はホッとしたことでしょう。毛利の脅威を排除したのですから。^^

 

しかし、輝元の評価すべき点は、ここだと思うんです。

 

それは、幕末へと続く、長州藩に、徳川憎しの精神の種を蒔いたことです。

 

この大減封により受けた屈辱は、輝元の意志として、代々の藩主に引き継がれ、やがて、幕末の動乱へとつながっていくことになるのです。

 

なんとも、因果なものですね。

 

この輝元の忍耐というべき処遇に甘んじた対応によって、長州藩は、幕末まで、国替えや取り潰しされることもなく、守りぬくことができたのです。

 

そして、それが、徳川にとっては、260年後にしっぺ返しを受けることになるのでした。^^;

 

これは、輝元のおかげと言っていいのではないでしょうか?

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

毛利家を守るため、あえて無能を装った毛利輝元。

 

僕はそう思っています。

 

本当に無能であれば、家康のことですから、毛利を潰すことはできたはずです。

 

でも、それができなかったのは、毛利輝元はあなどれないと思わせる何かがあったのだと思うのです。

 

それは、260年後に実現します。

 

輝元は、あえて、戦わず、子孫にその望みを託していったのでしょうね。

 

その精神が脈々と長州で形成され、打倒・徳川へとつながっていったのです。

 

それを実現させたのは、やはり、毛利輝元だったと思います。

 

無能ではなく、むしろ、評価すべき、名将だったと思います。

 

それでは、今回もありがとうございました。

 

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