石田三成の子孫は青森・弘前藩主だった?ホテルの経営者も?
2017/08/07
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超大物の徳川家康に敢然と立ち向かった石田三成。
大企業の社長に課長が反旗を翻したような戦が「関ヶ原の戦い」ですね。
反旗といっても、実際には、徳川方の都合の良いように石田三成を悪者にした感も否めませんが^^;
最近では、インテリで人間味のないイメージが少し変わってきたようにも思います。
2016年の大河ドラマ「真田丸」の山本耕史さんや、2017年の映画「関ヶ原」の岡田准一さん演じる「三成」像は、可哀想なくらい、実直に秀吉や秀頼、豊臣のために命をささげていく、不器用で実直な熱い男の印象が強いです。
忠義を尽くすことには長けていたが、人間付き合いが苦手だったのではないかと思うのです。その人間関係が苦手だからこそ、加藤清正や福島正則たちからは誤解されてしまったのではないかなと思いますね。
三成も実は、人間関係で悩んでいたのかもしれません。それを隠すため、頑なな態度になっていったのかなと思います。
そんな三成ですが、関ヶ原で家康に果敢に挑みながらも、仲間の裏切りにあい、残念ながら、最期は処刑されてしまいます。しかし、その血脈は、後の弘前で花開いていたのでした。
今回は、石田三成の子孫が青森の弘前藩主になった理由と、現在の子孫についてもスポットを当てて、わかりやすくまとめてみました。
石田三成の子孫は弘前藩主?
三成には、正室「皎月院(こうげついん)」との間に、3男3女を設けていました。
- 長男:石田重家
- 次男:石田重成
- 長女:某(石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ)
- 次女:某(蒲生家臣の岡重政(岡半兵衛)に嫁ぐ)
- 三女:辰姫(弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室)
- 三男:佐吉
まず、長男の重家ですが、関ヶ原の戦い後、徳川家康により命を安堵され出家しています。
三成と親交が深かった「春屋宗園」の弟子となり、宗亨と名乗ったそうです。そして、なんと!104歳まで生きたとか。現代においても、超長生きですよね。すごい!^^
次に次男の重成ですが、この人物が弘前藩とのつながりをもつキーマンになります。
実は石田重成は、豊臣秀頼の小姓をしていました。また、同じく、小姓をしていた仲間に、津軽の大名、津軽為信の嫡男「信建」がいました。
ともに、関ヶ原の戦いが起こっている時も、大坂城で秀頼をお守りしていたのです。
しかし、津軽為信は東軍についていたこともあり、西軍が敗戦したことが分かると、息子の信建と一緒に「重成」を津軽に連れ出してくれたのです。
津軽氏が石田重成を匿ってくれたおかげで、石田三成の子孫が弘前に根付くことになったのです。
その後、重成は名前を「杉山源吾」と改名し、弘前藩の家老になりました。そして、子孫は、代々津軽家の家臣としていくつか分家しながら、血脈を広げていったのです。
さらに、三女の辰姫も弘前藩に大きく関わる人物なのです。
津軽為信の嫡男・信建が為信よりも前に亡くなったため、弟の信枚が2代藩主になっていました。
この2代藩主・津軽信枚の正室となったのが、辰姫でした。(しかし、後に、家康の養女である満天姫が嫁いできて、正室となったため、辰姫は側室になってしまうのですが・・・T-T)
そして、信枚と辰姫の間に生まれた男子が信義です。この人物が3代弘前藩主となるのです。
ちなみに、津軽信義はこんなひとです↓
画像引用元:wikipedia
この津軽信義という人物は、徳川秀忠・お江の間に生まれた徳川家光がごとく、生まれながらにして藩主だと息巻いていたようですね。
その表現として、辰姫は「津軽のお江」と呼ばれていたとか。そして、夫である「信枚」は辰姫との男子を後継にすることを守り抜いたのでした。
13歳で藩主になったことから、老臣たちと信義の近臣たちとの折り合いがよろしくなく、よく対立していそうです。これがやがてお家騒動にまで発展してしまうのですが。
先代家臣たちが年老いてきて、若い家臣たちの考えについていけずに対立していくという構図は代替りのときにはありがちですよね。
ですが、この信義、なんと子供が男女合わせて50人近くいたらしいですよ^^
これまた、すごい!^^
そして、津軽信義の長男である「信政」、信政の次男である「信寿」がそれぞれ4代、5代藩主となっていきます。そうして、石田三成の子孫は、弘前藩の藩主として血脈をつないでいったのです。
特に、4代藩主・津軽信政は、弘前藩の中興の英主と言われ、藩祖・津軽為信とともに、弘前市内の高照神社に祀られているそうですよ。
なんとも面白いですなぁ~^^
石田三成の子孫はホテル経営者?
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さて、現代に目を向けてみると、石田三成の子孫だという人が結構いることが分かりました。
ですが、家系図にはそのような情報が載っていないものがほとんどなので、信憑性にかける根拠のないものがほとんどでしょうね。
ですが、そうした中、「石田三成の子孫が経営するホテルが破産!」というニュースがありました。
新潟県妙高市にあるホテルで、名称は「石田館 妙高ホテル」といいました。
大正時代に妙高温泉を開湯し、営業を開始した老舗の温泉ホテルだったのです。
「石田三成の子孫の宿」として、妙高エリアのスキー客向けの宿泊施設として人気があったそうですよ。ピーク時には、売上が2億円以上にも上ったとかで、かなり人気スポットだったんですね。
ですが、昨今のスキーブームの低迷に煽りを受けたことと、妙高温泉の源泉で土砂崩れによってダメージを受けてしまい、温泉供給がストップしてしまったことで、営業していくのが困難になってしまったらしいのです。
そのため、平成23年に経営悪化により、再建が困難となり、破産してしまったそうです。
また、他にも、写真家・石田多加幸さんや「石田三成の末裔として育った」を書いた澁谷理恵子さんなども石田三成の子孫だと言われています。
澁谷理恵子さんは、三成の末子の姫が祖先だとか。この姫が、赤子の頃、乳母に抱えられて、越後に落ち延びたそうですが、ホテルの経営者もこの姫の子孫だったのかもしれませんね。
弘前を中心に、岡山にも子孫がいるとの情報ありますし、今となっては、分家の分家でさらに分かれているため、特定するのは極めてこんなんだと思いますが、夢はありますよね。
戦国のロマンを受け継ぐ子孫たちは、日本の各地で命をつないでいるのですね。
まとめ
今回は、石田三成の子孫が弘前藩主だったということと、現在の子孫の情報にスポットを当ててご紹介しました。
明確に家系図に記されていることは極めてまれでしょうが、家系図は途中で様々な思惑で塗り替えれたりしますよね。特に戦国時代や徳川の時代には多かったのではないでしょうか?
信憑性という点では非常に疑問に残る部分もありますが、義経伝説のように、そうあってほしいと願い、夢を見るのは悪くないですよね。
根拠がなくても、そういう言い伝えであるということは、途中で誰かがガセを言ったとしても、箔がつきますよね。^^;
だから、織田信長は平氏、徳川家康は源氏を祖先としていたのでしょう。天下を取った武家の棟梁として、箔をつけるためだったと言われていますからね。逆に言えば、ガセ?^^;
それほど、家系は重要だったのでしょうね。^^
それでは、今回もありがとうございました。
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