鶴ヶ城(若松城)の歴史を簡単にわかりやすく!アクセス情報も!
2017/09/10
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鶴ヶ城(若松城)は、幕末の壮絶な戦いであった戊辰戦争や白虎隊で有名ですね。
徳川のために命をかけて散った松平容保。
「ならぬものはならぬ」という会津藩の教えは、徳川を守り続けるための教訓でもありました。
頑固なまでに、なにがあっても譲らぬ精神が会津を最強軍団へと育んでいったのでしょうね。^^
では、この鶴ヶ城の歴史ってどのようなものだったの?というあなたに、簡単にわかりやすくまとめてみますね。
そして、ぜひ、鶴ヶ城に足を運んで、会津藩や白虎隊の息吹を感じてみてくださいね。^^
鶴ヶ城(若松城)の基本データ
まずは、鶴ヶ城を簡単におさらいしてみましょうね。^^
以下に簡単にまとめてみましたよ。
鶴ヶ城の基本データ
鶴ヶ城の基本データはこんな感じです。^^
別名 | 鶴ヶ城、会津若松城、黒川城
※この記事では、「鶴ヶ城」の表記で書いていますが、正式には「若松城」だそうです。^^ |
城の構造 | 梯郭式平山城 |
天守の構造 |
|
建てた人 | 蘆名直盛 |
建てた年 | 1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年) |
主な城主 | 【黒川城】
【鶴ヶ城(若松城)】
|
廃城年 | 1874年(明治7年) |
遺構 | 石垣、土塁、堀 |
鶴ヶ城の勲章
鶴ヶ城は、「若松城」として国の史跡に指定されています。
また、日本の100名城にも指定されています。
さらに、鶴ヶ城が存在する鶴ヶ城公園は、日本さくら名所100選に指定されていますよ。
春の桜、秋の紅葉も見事ですよね。^^
夜のライトアップも魅力のひとつです。
鶴ヶ城(若松城)とは?
それでは、鶴ヶ城のことを簡単にわかりやすくまとめてみましたので、ご参考までにどうぞ。^^
鶴ヶ城の歴史とは?
鶴ヶ城の歴史は、南北朝の時代の1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)に、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が「東黒川館」という館を造ったのがはじまりとされています。
それ以後、黒川城、または小高木城と呼ばれ、代々、蘆名氏の居城となったのです。
そして、戦国時代に、蘆名氏中興の祖である「蘆名盛氏」により、黒川城が発展するのでした。
(蘆名盛氏 引用元:wikipedia)
この蘆名氏は、桓武平氏の流れを組む三浦氏の子孫であり、相模蘆名氏と会津蘆名氏に分かれます。
蘆名盛氏は、会津蘆名氏の流れになります。
ちなみに、相模蘆名氏の子孫には、石田三成がいたらしいですよ。^^
なんとも、家系というのは、どこかでつながっていて面白いですね~^^
鶴ヶ城の変遷
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会津蘆名氏は、盛氏の時代に、伊達氏と並んで奥州の覇権争いをするほどの勢力になっていましたが、盛氏が亡くなると、次第に勢力が衰えていきました。
蘆名氏の悲運ですね。
蘆名氏の分家である猪苗代氏などの統制が出来ず、さらには、後継者問題もあり、一族の結束が弱まってしまったのですね。
そして、戦国末期、佐竹義重の息子が蘆名を継ぎ、蘆名義広として蘆名の当主となります。
しかし、蘆名義広の時代になると、伊達政宗により、摺上原の戦いで大敗し、会津の地を奪われてしまいます。
さらに、関ヶ原でもどっちつかずでいたために、蘆名氏は改易となってしまい、お家断然となってしまうのです。
ただし、蘆名氏の一門である針生氏が伊達家に仕え、その後、仙台藩主・4代伊達綱村により、蘆名の姓を許され、蘆名家が再興していますけどね。^^;
ということで、蘆名氏を滅ぼし、会津を手に入れた政宗でしたが、秀吉の小田原参陣に遅参したことで、会津を没収されてしまいます。^^;
その後に入城したのが、「蒲生氏郷」です。
蒲生氏郷が、黒川から「若松」と町の名前が改められ、地上5階、地下二階の天守が築かれ、「鶴ヶ城」と名付けられたのです。
この蒲生氏郷。
築城の名手でもあります。
有名なところでは、三重県の松阪城があります。こちらも見事な石垣の天守の城でした。今は、石垣しかないですが。
そして、会津の黒川城を一新し、見事な石垣の天守を築き、地名も「若松」に改名し、城の名前を蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで「鶴ヶ城」と名づけたのでした。
ここに、今の鶴ヶ城が誕生したのです。^^
鶴ヶ城の石垣も見事ですよね。
その後は、蒲生家のお家騒動により移封され、代りに上杉景勝が越後より移封され、しばらくは、上杉家も会津にいますが、関ヶ原により、米沢に移封させられます。
そして、加藤嘉明が入場したりしましたが、その後改易させられたりしながら、城主が定まりませんでした。
しかし、いよいよ、徳川家光の異母弟である保科正之が会津に入城し、その後、保科氏は、「松平」に改名し、明治維新まで、この松平氏が治めることとなったのです。
幕末の松平容保と新選組、白虎隊など、悲運の会津というイメージがありますが、徳川のため、正義を貫いた会津松平氏は、長州や薩摩から恐れられた、最強の軍団だったことは間違いありません。^^
(損傷した鶴ヶ城 引用元:wikipedia)
このように、様々な人によって、鶴ヶ城の歴史が作られてきたのですね。^^
鶴ヶ城のアクセス情報
それでは、鶴ヶ城へのアクセス方法などをご紹介しますね。^^
住所 福島県会津若松市追手町1-1 交通アクセス 【車】 磐越道会津若松ICから約15分
【その他】
まちなか周遊バス「ハイカラさん」「あかべぇ」に乗り
鶴ヶ城北口停留所下車徒歩5分
駐車場 有料の駐車場があります お問合せ 0242-39-1251 会津若松市役所観光課
0242-27-4005 会津若松観光ビューロー備考 ー
<MAP>
まとめ
いかがでしたでしょうか?
「鶴ヶ城」というと、悲運の会津というイメージがありますが、逆に言うと、日本人が忘れていた魂を貫いた人たちと共に戦った栄光の城とも言えると思います。
戊辰戦争によって、亡くなった方たちの霊を祀るため、毎年9月22日に「会津秋まつり」が開催されているそうですよ。
外見は豪華絢爛に見えるお城も、一歩歴史の中に踏み込むと、激しく燃えたぎった武将たちの魂のぶつけ合いがあったことが分かります。
そのひとつを知るだけでも、お城やそのときの人物に共感できることがあるかもしれません。点だったものが線になる瞬間でもありますね。^^
それでは、今回もありがとうございました。
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