上田城の歴史を簡単に!徳川軍を撃退したその構造とは?

      2017/09/01

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今回は、信州上田、NHK大河ドラマ「真田丸」で脚光を浴びた、上田城を取り上げます。^^

 

上田城(うえだじょう)は、真田昌幸によって、1583年(天正11年)に築城されました。

 

この上田城は、徳川軍を2度にわたり撃退した、難攻不落の城として知られますが、今の上田城は、関ヶ原のあとに入城した「仙石忠政」によって再建された形が復元されています。

 

この上田城には、どんな歴史があったのでしょうか?また、2度にわたり、徳川軍を撃退した、上田城の構造はどうなっていたのでしょうか?気になりますね。^^;

 

ということで、上田城の歴史を簡単にわかりやすく、お伝えしていきますよ。

 

そして、ぜひ、上田城に足を運んでみてくださいね。^^

 

上田城の基本データ

まずは、上田城を簡単におさらいしてみましょうね。^^

 

以下に簡単にまとめてみましたよ。

 

上田城の基本データ

上田城の基本データはこんな感じです。^^

別名 尼ヶ淵城
城の構造 梯郭式平城
天守の構造 不明だが、金箔の瓦が出土されたことから、金箔瓦葺きの天守があったのではないかという説もあり
建てた人 真田昌幸
直した人 仙石忠政
建てた年 1583年(天正11年)
主な城主 真田氏、仙石氏、松平氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、土塁、堀

出典:wikipedia

 

上田城の勲章

上田城は、本丸と二の丸の大部分が国の史跡に指定されています。

 

また、日本の100名城にも指定されています。

 

さらに、本丸の櫓3基が長野県宝に指定されています。

 

上田城は、天守閣がない城と言われてきました。根拠は、天守閣があったとされる資料がみつかっていないからだそうです。^^;

 

しかし、上田城は築城した状態が完成形ではなく、しばらくは未完成としていたことや、金箔瓦や菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片が出土されていることから、天守閣はあった可能性もあると言われて来ています。

 

もっとも、上田城の近くの小諸城や松本城、沼田城には天守閣があったことから、上田城にもあったのではないか?と考える方が自然な気もしますし、織田信長や豊臣秀吉を意識して、黄金の天守を築いていたかもしれません。

 

いずれにしても、想像の域でしかないのが残念ですが。いつか、確たる資料が出てくることを期待しましょうね。^^

 

上田城の歴史とは?

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それでは、上田城の歴史を簡単にわかりやすくまとめてみました。^^

 

上田城の築城はいつ?誰が建てたのか?

 

上田城は、1583年(天正11年)に、真田昌幸によって築城されました。

 

この築城は、当時徳川方についていた真田昌幸が、上杉への防御の最前線として、城を築くべきと進言したことで実現しました。名目は、徳川家康の命令で築城されていますが、実際には、昌幸の策だったのです。^^

 

戦において、鉄壁の守りに最適な、尼ヶ淵の要害に難攻不落の城を築きたいと思っていた、真田昌幸の勝ちだったのです。^^

 

まんまと昌幸の策にひっかかった家康は、後に散々真田昌幸に苦しめられるのです。^^;

 

それが、有名な、上田合戦ですね。

 

徳川から上杉にくら替えした、真田昌幸は、家康に作らせた上田城を今度は、徳川への防御の最前線として、位置づけます。

 

そして、2回にわたって、徳川軍を撃退していくことになるのです。この合戦は、痛快な戦として有名ですよね。

 

一回目は、1585年(天正13年)の第一次上田合戦

 

二回目は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの直前に、徳川秀忠軍を足止めにした、第二次上田合戦です。

 

このことで、全国諸将に、ここに「真田」ありと、知らしめることになり、一躍有名になったのでした。

 

それは、のちに、真田信繁(幸村)が、徳川との最終決戦のため、大阪城に入城した際に、豊臣方についた浪人衆たちからも一目置かれて入城したことからも分かりますね。

 

それだけ、真田のネームバリューが広がったきっかけになった戦でした。

 

上田城の廃城

関ヶ原の戦いにおいて、昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)の父子3人は、徳川につくか、豊臣につくかで大いに悩みます。

 

そして、出した答えが、徳川と豊臣双方について、真田の家を守る!という策でした。

 

真田信幸(信之)は、徳川方、真田昌幸と信繁(幸村)は、豊臣方につき、どちらが勝っても、真田の家は守られるという苦渋の策をとったのでした。

 

これが、世に言う、「犬伏の別れ」ですね。

 

大河ドラマ「真田丸」でも、最大の見せ場として描かれていました。^^

 

結果は、徳川方の東軍が勝利し、真田昌幸・信繁(幸村)は敗れ、紀州の九度山に流されてしまいます。

 

この結果を受け、真田の領地は没収され、上田城は廃城となってしまいました。家康は真田を恨んでいたので、徹底的に、上田城を潰します。堀も埋められ、城としての機能をなくしてしまったのです。

 

さぞ、家康は満足だったことでしょうね。^^;

 

しかし、また、真田に苦しめられることになるんですけどね。^^

 

九度山に蟄居していた真田信繁(幸村)が大阪城に入ったという知らせが家康の耳に入ったとき、父のほうなのか、息子のほうなのかと狂ったように恐怖におののいて、息子のほうだと分かったとたん安心したという逸話がありますが、このとき、家康は、幸村をまだ舐めていましたよね。^^

 

大坂夏の陣では、家康の首元に迫る勢いで、攻めてきたことで、家康は、もはやこれまでと覚悟したようですからね。

 

この勇猛果敢な武勇が、関ヶ原の東軍の武将たちからも、真田幸村は日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と評価されたのです。

 

関ヶ原の戦いの後の上田城

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、徳川方についた真田信幸に、9万5千石の上田藩主として上田の領地を引き継がせます。

 

しかし、上田城は、壊されていたので、三の丸跡地に陣屋を造って、そこを藩庁にしていました。^^;

 

それから、家康は、信幸に、父・昌幸の「幸」の字を捨てさせ改名させます。信幸は真田の意地で、読み方だけは変えずに、「信之」と改名したのでした。

 

その後、信之は、松代に13万石で松代藩主として移封させられ、それ以降、松代藩の松代城が真田の拠点となったのです。

 

そして、そのあと上田藩を引き継いだのが、「仙石忠政」でした。

 

この忠政が、1626年(寛永3年)から、取り壊された上田城を改修し、現在に近い形で再建したのです。

 

さらには、1706年(宝永3年)からは、松平忠周(ただちか)が入城し、それ以降は、松平氏が上田藩主を務めていきます。

 

しかし、上田城の城下町の大火事や、千曲川の洪水などで、上田城も焼失や崖下部分の崩壊などがありました。

 

現在の上田城

(画像:上田城北櫓)

 

2017年現在は、上田城は、上田城跡公園として整備され、上田市の観光拠点となっています。

 

2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の大河ドラマ館もこの公園内に設置されていましたよ。

(画像:真田丸大河ドラマ館)

 

本丸南櫓、北櫓が復元され、続いて、本丸東虎口櫓門、二の丸北虎口石垣も復元されています。

 

そして、2018年には、二の丸調査に基づいて、復元工事が行われる予定になっています。

 

新たな、観光スポットになりそうですね。^^

 

上田城の構造は?

上田城は、千曲川に面していた断崖がある南側が、最も防御力が強いことを利用し、真田昌幸がこの地に城を築いたのです。

 

この南側に、本丸を置き、北と東と西側を二の丸で囲んだ構造になっていて、三の丸は、二の丸と東の大手門の間に置かれていました。

 

この構造は、梯郭式といわれる構造(縄張り)になっています。

 

当初は、上杉を防ぐためでしたが、やがて、徳川を防ぐための城としたため、徳川への備えとして、東側に大手門を配置し直したと伝わっています。もとは、越後方面に配置していたそうですが・・・。^^;

 

上田城のアクセス情報

それでは、上田城の場所やアクセス方法、気になる駐車場などをわかりやすく、まとめてご紹介します。

 

住所 長野県上田市二の丸6263番地イ
交通アクセス 【電車】

北陸新幹線・しなの鉄道線・上田電鉄別所線上田駅から徒歩約10分

【車】

上信越自動車道 → 上田菅平ICから車で約15分

駐車場 上田城跡北観光駐車場(有料104台)、上田城跡駐車場(有料88台)
お問合せ 0268-71-6074 信州上田観光協会
入場料 大人:250円
大学・高校生:180円
中学・小学生:60円
ライトアップ 22時まで

 

<MAP>

まとめ

上田城はいかがでしたでしょうか?

 

真田一族の魅力が詰まった上田城。

 

真田の息吹をぜひ堪能してみてはいかがでしょうか?

 

それでは、今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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