小谷城の歴史を簡単にわかりやすく!地図やアクセス情報も!
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浅井長政の居城として知られる「小谷城(おだにじょう)」。
小谷城は、日本五大山城のひとつに数えられている、堅固な山城でした。
しかし、織田信長に4年に渡って攻められた小谷城の戦いにより、小谷城は落城し、浅井長政、父・久政は自害、浅井家は滅亡してしまうのです。
そんな悲劇のあった「小谷城」ですが、どのような歴史があったのでしょうか?
今回は、小谷城の歴史を簡単にわかりやすくまとめてみますね。
また、地図やアクセス情報も合わせてお伝えします。
どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいね。
目次
小谷城の基本データ
まずは、小谷城を簡単におさらいしてみましょうね。^^
以下に簡単にまとめてみましたよ。
小谷城の基本データ
小谷城の基本データはこんな感じです。^^
別名 | 小谷城 |
城の構造 | 梯郭式山城 |
天守の構造 | 二層の天守が推定されるが、詳細は不明 |
建てた人 | 浅井亮政 |
直した人 | 浅井氏 |
建てた年 | 1516年(永正13年) |
主な城主 | 浅井氏、豊臣秀吉 |
廃城年 | 1575年(天正3年) |
遺構 | 曲輪、堀切、土塁,石垣、縦堀、礎石、虎口 |
出典:wikipedia
小谷城の勲章
小谷城は、小谷城跡として、国の史跡に指定されています。
また、日本の100名城にも指定されています。
そして、小谷城は、日本五大山城にも選ばれているのです。
日本五大山城とは、以下の5つの山城のことです。
- 春日山城(越後:上杉謙信)
- 月山富田城(出雲:尼子経久)
- 観音寺城(近江:六角義賢)
- 小谷城(近江:浅井長政)
- 七尾城(能登:畠山義綱)
()内は、国と主な城主
小谷城の歴史とは?
それでは、小谷城の歴史を簡単にわかりやすくまとめてみました。^^
小谷城の築城はいつ?誰が建てたのか?
(小谷城跡 出典:wikipedia)
小谷城はいつ出来て、誰が建てたのでしょうか?
浅井三代記によると、1516年(永正13年)に築城されたらしいですが、これには、諸説あって、今では、1523年(大永3年)から1524年(大永4年)とする説が有力だそうです。
建てたのは、浅井家初代当主である「浅井亮政(すけまさ)」だと伝わっています。
ちなみに、浅井亮政は、浅井長政のおじいさんにあたる人ですよ。^^
小谷城の歴史
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浅井亮政は、もともとは、北近江の守護・京極氏の家臣でした。
世は、戦国のはじまりの時期で、下剋上の始まりでもありました。
浅井亮政は、京極氏の世継ぎ問題を解決し、京極家中において、実権を握るまでになったのです。
京極氏をおさえ、実質的な北近江の覇者となったのです。
そして、南近江の守護であった六角氏と対立するのでした。
このころに、浅井亮政は、「小谷城」を築城したのではないかと言われているのです。
実質的な北近江の覇者となった亮政ですが、京極氏の恨みは尾を引き、亮政が亡くなるまで、京極氏とは対立していたのでした。
(浅井久政 出典:wikipedia)
亮政の後を継いだ2代・浅井久政ですが、六角氏と互角に渡り歩いていた亮政でしたが、久政の代には、六角氏に臣従してしまうのです。
浅井家の勢力も少しずつ衰え出していきます。
久政は、久政で、なんとか浅井家を守るため、六角氏に臣従していたのです。
そして、久政の後を継いだ、3代・浅井長政が登場します。
(浅井長政 出典:wikipedia)
長政は、父・久政の弱腰の姿が気に入らず、久政を追放してしまうのです。家臣たちもそれを迎え入れ、その勢いで、とうとう、六角氏と互角に渡り合うまでに盛り返してきたのです。
ですが、長政が小谷城を堅固なものとしていくうちに、織田信長に目をつけられてしまうのです。
それは、北近江という京に上るために有利な場所だからでした。
信長は、長政と妹・お市の方を結婚させ、浅井家と同盟を結び、京に上ることに成功したのです。
しかし、信長が長政との約束を破り、盟友・朝倉義景を攻め出したことから、浅井長政の動向にも暗雲がたちこめてくるのです。
信長よりも、盟友である朝倉義景との絆をとった長政は、信長を裏切り、朝倉義景とともに、信長を攻めることを決断するのです。
その後は、信長との戦いに明け暮れる毎日でした。
そして、姉川の戦いで、浅井長政は大きな痛手を負ってしまうのです。
姉川の戦いとは?合戦の場所は?地図で布陣図もわかりやすく解説!
さらに、一乗谷の戦いによって、盟友・朝倉義景は自害し、朝倉家は滅亡。
そして、とうとう、信長が小谷城まで攻めてきて、「小谷城の戦い」により、長政の自害してしまうのです。
これにより、浅井家も滅亡してしまうのです。T-T
小谷城の戦いとは?浅井長政最後の決戦!その後も分かりやすく!
その後、恩賞として木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)に、北近江の3郡が与えられました。
そのうち、琵琶湖から離れた山城である小谷城を秀吉は嫌い、琵琶湖に近い場所に新たに城を築き、そこを北近江の拠点としたのです。これが、長浜城です。
そのため、小谷城は、廃城となってしまうのでした。
小谷城の構成
(小谷城跡絵図 出典:wikipedia)
小谷城は、標高495mある小谷山に築かれた城です。
その小谷城を囲むように、前面には虎御前山・山脇山・丁野山、西には高時川、背後には伊吹山があり、要害の山城だったのです。
小谷城には、本丸を中心とする主郭と武家屋敷が並ぶ清水谷(きよみずだに)、そして、それらを守るように築かれた出丸・金吾丸・大嶽城・月所丸・焼尾丸・福寿丸・山崎丸の独立した砦群から構成されるのです。
小谷城跡の地図とアクセス情報
それでは、小谷城跡の場所やアクセス方法、気になる駐車場などをわかりやすく、まとめてご紹介します。
住所 〒529-0313 滋賀県長浜市湖北町伊部 交通アクセス 【電車】 JR 北陸本線 河毛駅
湖北町タウンバス 小谷山線 小谷城址口 下車貸し自転車あり
【車】
北陸自動車道 小谷城スマートIC → 国道365号 → 伊部林道
【徒歩】
- 河毛駅より徒歩約25分程度で登山口へ
- 登山口から本丸曲輪部分へは徒歩約25分 (道は岩が多く歩きづらい。)
駐車場 山腹に無料駐車スペース有 入場料 無料
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まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、浅井家の居城「小谷城」の歴史についてご紹介しました。
織田信長に破れ、廃城となってしまった「小谷城」ですが、浅井家の息吹を感じに、小谷城跡へぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
ちなみに、小谷城跡は、熊出没注意だそうなので、くれぐれもご注意を。^^;
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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