金沢城の歴史を簡単にわかりやすく!天守閣はなぜ再建されない?

      2017/11/08

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金沢城は、加賀百万石で有名な前田家の居城でした。

 

また、金沢城の庭園として有名な「兼六園」もありますね。^^

 

では、この金沢城、いったいどんな歴史をたどってきたのでしょうか?

 

知りたい!と思っているあなたに、簡単にわかりやすくまとめてみますね。

 

金沢城に行ってみたい!と思ってもらえたら嬉しいです。

 

今回は、金沢城で行ってみますよ。^^

 

金沢城の基本データ

まずは、金沢城を簡単におさらいしてみましょうね。^^

 

以下に簡単にまとめてみましたよ。

 

金沢城の基本データ

金沢城の基本データはこんな感じです。^^

別名 尾山城、尾上城、金城
城の構造 梯郭式平山城
天守の構造
  • 不明(1592年築)
  • 御三階櫓(望楼型3重 1603年築)非現存
建てた人 佐久間盛政
直した人 前田利家・利長
建てた年 天正8年(1580年)
主な城主 佐久間氏、前田氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 長屋・門、石垣、土塁、堀、移築能舞台

出典:wikipedia

 

金沢城の勲章

金沢城は、金沢城跡として、史跡に指定されています。

 

また、石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫国の重要文化財として指定されていますよ。^^

(画像:石川門と石川橋)

 

(画像:三十間長屋)

この三十間長屋は、鉄砲蔵だったそうです。

 

(画像:鶴丸倉庫 引用元:wikipedia

 

鶴丸倉庫は、武具の格納庫でした。

 

さらに!

 

日本100名城にも指定され、現在は、金沢城址を中心とした城下町金沢の景観を世界文化遺産に登録しようという動きが進められています。

 

なかなか厳しい条件があるようですが、近い将来、金沢城址、兼六園が世界遺産になってくれることを祈っています。きっと指定されると信じています。^^

 

金沢城とは?

それでは、金沢城のことを簡単にわかりやすくまとめてみましたので、ご参考までにどうぞ。^^

 

金沢城の歴史とは?

金沢城の前身は、かつて、加賀の一向一揆の拠点となった「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」と言われています。これは、名目は寺院ですが、石垣を廻らせた城といっても過言ではない建物だったようです。

 

加賀の一向一揆は、織田信長と本願寺中興の祖と言われた蓮如との対決が有名ですが、実は、100年にもおよび、浄土真宗の勢力拡大のため、守護職・富樫氏との対立から始まったものだったのです。

 

それが拡大し、朝倉氏、それから、上杉謙信、そして、織田信長へと相手が変わり、信長の時代にようやく、本願寺勢力を抑えることに成功したのです。^^

 

拠点となった「尾山御坊」は攻め滅ぼされ、信長は、その跡地に、「金沢城」を築き、そこに佐久間盛政が入城したのでした。この金沢城は、佐久間盛政が命名したと伝わっていますよ。^^

 

ですが、佐久間盛政は、賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家方につき、秀吉に敗れてしまいます。そして、秀吉は、この金沢城を、盟友である「前田利家」に譲ったのです。

 

これ以来、金沢城は、前田家の居城となったのです。

 

前田利家は、曲輪や堀の拡張を行い、5重の天守や櫓を建てて、金沢城の基盤を固めたのでした。

 

金沢城は尾山城だった?

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前田利家は、秀吉と敵対した佐久間盛政が命名した「金沢城」を継ぐことを嫌い、出身地である尾張の名前を取り、「尾山城」と名づけたそうです。

 

しかし、既に、町の名前は「金沢」が浸透しており、やむなく、「金沢城」に名前を戻したと伝わっています。

 

利家にしてみれば、なんともすっきりしなかったでしょうけど、民思いの利家だからこそ、そのまま、金沢城に名前を戻すことができたのでしょうね。^^

 

話は、ずれますが、利家がもう少し長く生きててくれれば、家康の出方も違ったものになっていて、徳川の天下も危うかったでしょうにね。豊臣の世がもう少し続いたと思いますが、でも、やはり、徳川が天下をとっていたかもしれませんね。^^;

 

金沢城の天守閣が再建されない理由とは?

金沢城は、現在、天守がなく金沢城跡となっていますが、往時は、百万石にふさわしい、絢爛豪華な天守を擁した城郭だったのです。しかし、慶長7年(1602年)に落雷にあり、天守がなくなってしまいます。

 

それ以来、天守の再建は現在までされていないんですね。^^;

 

それだけ、技術的にも難しい天守だったのか、それとも徳川への配慮だったのか・・・?

 

実際には、江戸時代以前の戦国期の天守だったために、資料がなかったことが最大の理由なんだそうですよ。^^;

 

落雷で天守が焼失してしまい、資料がまるっきりなくなってしまい、造りたくても造れないT-T

 

というのが真相のようです。^^;

 

確かに、現在の金沢城は、江戸末期をもとに再建されているため、戦国期の天守を取り入れると、時代がアンマッチで再建しようがないということもあるでしょうね。^^

 

歴史の整合性を守った結果、現在も天守は再建されていないんですね。^^;

 

兼六園はいつ誰が作ったの?

それでは、おまけとして、兼六園についても少しお勉強しましょうかね。^^

 

前田利家を加賀藩初代藩主として、数えて、4代目の前田綱紀(つなのり)が、「蓮池御殿(れんちごてん)」という別荘を建てて、その周りを庭園化したのが、兼六園の始まりと言われています。

 

当時は、「蓮池庭(れんちてい)」と呼ばれていたそうですよ。

 

歴代の藩主や重臣たちが、観楓の宴などをする場として、使われていたそうです。

 

しかし、1759年(宝暦9年)4月に発生した宝暦の大火で、蓮池庭が消失してしまいます。再興されたのは、15年経った後、10代藩主の前田治脩(はるなが)の頃でした。

 

その頃には、翠滝と夕顔亭、内橋亭が造られ、さらには、藩校である明倫堂と経武館も建てられていきました。

 

また、11代藩主の前田斉広(なりなが)が、隠居所として「竹沢御殿(たけざわごてん)」を造ったり、息子で12代藩主である前田斉泰(なりやす)が壊したりしながら、現在の形に整えられてきたそうですよ。

 

なぜ取り壊されたのかは不明ですが、贅沢するな!ってことだったんでしょうかね?^^;

 

まあ、いろいろ、あったんですね。^^;

 

兼六園の名前の由来は?

時の老中、松平定信によって、「兼六園」と命名されたそうです。

 

定信は、宋の詩人・李格非の『洛陽名園記』の中に出てくる、中国洛陽の名園・湖園をもとに、命名したそうです。

 

その、湖園は「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」と謳われていたそうで、この兼六園も同じように六つを兼ね備える名園だと感じたからなんでしょうね。なんとも雅な感じですね。^^

 

金沢城へのアクセス情報

それでは、金沢城の場所やアクセス方法、気になる駐車場などをわかりやすく、まとめてご紹介します。

 

住所 石川県金沢市丸の内1番1号
交通アクセス 【電車】

JR金沢駅から北陸鉄道バスに乗り約15分 「兼六園下」下車徒歩すぐ

【車】

北陸自動車道金沢西IC・金沢東ICから約30分、金沢森本ICから約20分

駐車場 兼六駐車場

普通車482台、バス12台収容可能

お問合せ 076-234-3800 石川県金沢城・兼六園管理事務所
開園時間 【兼六園・金沢城公園】 年中無休

・3月1日~10月15日  7:00~18:00 (退園時間)
・10月16日~2月末日 8:00~17:00 (退園時間)

入園料 【兼六園・金沢城公園】

個人
・大人(18歳以上) 310円
・小人(6歳~18歳未満) 100円

団体(有料対象者30名以上)
・大人(18歳以上) 250円
・小人(6歳~18歳未満) 80円

 

<MAP>

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

加賀百万石の居城「金沢城」。

 

 

天守を擁した絢爛豪華な城郭だったはずが、落雷にあい、天守がなくなり、それ以来、天守は再建されませんでした。やはり、お城というと、天守閣を見たいものですが、時代のバランスを考えた結果、天守の再建は難しいようですね。

 

ですが、天守にも匹敵する櫓は実に見事です。さすが、加賀百万石です。

 

それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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