井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された理由は?なぜ薩摩浪士がいた?

      2017/10/24

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今回は、井伊直弼桜田門外の変についてお勉強しましょうね。^^

 

本格的な尊皇攘夷運動、そして倒幕へと向かうきっかけとなったのが「桜田門外の変」です。

 

この桜田門外の変で暗殺されたのが、時の大老・井伊直弼でした。

 

なぜ、井伊直弼は、桜田門外の変で暗殺されてしまったのでしょうか?

 

その暗殺グループは、18人いたらしいですが、18人中17人が水戸浪士で、残り1人だけ薩摩浪士がいました。なぜ1人だけ、薩摩浪士がいたのでしょうか?

 

今回の歴史は、「井伊直弼」と「水戸浪士&薩摩浪士」という点が結びついて、「桜田門外の変」という点へと結びつきます。

 

桜田門外の変へと結びつく流れによって、その後の動きは、本格的な尊皇攘夷、倒幕という激しい時代の流れにシフトしていくことになるのです。^^;

 

では、そろそろ、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された理由と、なぜ薩摩藩士が1人だけいたのか?について、簡単にわかりやすくまとめてみますよ。

 

さあ、楽しんでご覧くださいね。^^

 

井伊直弼とは?

(井伊直弼 出典:wikipedia

 

では、まず、井伊直弼について、簡単におさらいしておきましょう。

 

井伊直弼はなぜ彦根藩主になれた?

井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日に彦根城の二の丸で生まれました。

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父は、彦根藩13代藩主・井伊直中(なおなか)で十四男として生まれました。母は、側室でお富という人です。

 

直弼は、十四男ということで、井伊家の後継者でもなく、養子として、他家の当主になるでもなく、世捨て人のように暮らしていたそうです。^^;

 

世捨て人のような暮らしをするという意味で、直弼が暮らしていた邸宅を、埋木舎(うもれぎのや)と名付けたとか。

 

今は、彦根城の見所のひとつになっていますね。^^

 

直弼は、埋木舎で国学を学んだり、茶道を学んだり、和歌や鼓、禅、兵学、居合術などを学んでいたそうです。後に藩主、大老になるべく勉強していたのかもしれませんが、当時は、趣味の範疇だったような気もしますね。

 

好奇心は旺盛だったのでしょう。^^

 

この時代の勉強が後の井伊直弼の基盤になるのです。

 

井伊直弼は、自由気ままな世捨て人生活だったのですが、時代が直弼を彦根藩主へと導いてしまいます。

 

14代藩主・井伊直亮(なおあき)の後継者とされていた、養子(井伊直弼の兄)である井伊直元(なおもと)が藩主になる前に、亡くなってしまうのです。

 

そして、直亮には実子がいなかったため、直弼に藩主の座が巡ってきてしまったのです。^^;

 

直亮の養子という形で、15代・彦根藩主となったのでした。

 

井伊直弼はなぜ大老になれた?

時代は、開国をせまるペリーたちが日本にやってきて、騒がしくなっている時期でもありました。

 

老中・阿部正弘が日米和親条約を結び、幕府の力も徐々に衰えを見せ始めていました。

阿部正弘とは?ペリーとの日米和親条約で鎖国終了?その評価は?

 

薩摩や水戸の島津斉彬や水戸斉昭、松平春嶽らの発言力が増してきていたときでもあります。

 

老中・阿部正弘が老中首座を堀田正睦に譲りますが、堀田正睦は、ペリーの後にきた「ハリス」から、日米修好通商条約を結ぶように迫られます。

 

堀田正睦も、そのほうがいいよなと思い、時の天皇・孝明天皇に許可を求めますが、あえなく却下されてしまいます。^^;

 

このことで、堀田正睦は、老中をやめさせられてしまいます。そして、その後、徳川13代将軍・家定によって、井伊直弼が大老に推挙され、井伊直弼が大老職に就くことになったのです。

 

家定は、この自体を収められるのは、家柄にも申し分のない、彦根の井伊直弼しかいないと思ったとか。

 

いずれにしても、病弱だった家定は、井伊直弼のような、気骨のある者を大老において、幕府の力を盛り返そうとしたのかなと思いますね。というより、まかせたかったのでしょう。^^;

 

桜田門外の変とは?

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それでは、本題に入っていきましょう。^^

 

徳川14代将軍は誰にする?

井伊直弼が大老についてから、老中・堀田正睦が孝明天皇に却下された日米修好通商条約を、許可を得ず、勝手に結んでしまいます。

 

直弼は、条約を結ばなければ、アメリカに日本は潰されてしまう。そのために、一刻も早く、条約を結ぶ必要があると判断したのでした。

 

しかし、このことが、日本国内を、尊皇攘夷、倒幕へと進ませるシナリオのプロローグになってしまうのです。^^;

 

まず、13代将軍・徳川家定の後継者、つまり14代将軍を誰にするのかについて、将軍継嗣問題が起こります。

 

大老・井伊直弼を中心とする「南紀派(なんきは)」と呼ばれるグループは、紀州藩の藩主・徳川家茂を推し、対する、薩摩藩主・島津斉彬や水戸藩主・水戸斉昭らを中心とする「一橋派(ひとつばしは)」と呼ばれるグループは、一橋(徳川)慶喜を推して、両者の熾烈な戦いが展開されていくのです。^^;

 

その結果、南紀派が勝利し、14代将軍には、徳川家茂が就くことになるのです。

 

安政の大獄とは?

14代将軍・家茂の就任劇は、井伊直弼の豪腕さが光りました。そうです、超強引に勝ち取ったと言っていいでしょう。^^

 

ですので、破れた一橋派をはじめ、井伊直弼のやり方に不満をもつ人たちがたくさん出てきました。

 

そこで、直弼は、これらの人たちを、これまた強引に処罰していったのです。

 

この処罰が「安政の大獄」なのです。

 

島津斉彬、水戸斉昭や松平春嶽、吉田松陰や、橋本左内など、当時の実力者たちが次々と処罰されていくことになりました。^^;

 

日米修好通商条約を勝手に結んだことで、天皇をないがしろにしたと見なされ、井伊直弼へ反発する尊皇派たちが増えていきます。

 

また、アメリカ人何するものぞ!と意気込む攘夷派も直弼のやり方に不満をもち、ついには、天皇を中心とした、日本独自の国作りをすべきという考えをもつ武士たちが増えていくのです。

 

これが、尊皇攘夷派の志士たちとなるのですね。^^;

 

長州藩や水戸藩など、過激な尊皇攘夷派が増えていくことになるのでした。

 

桜田門外の変とは?起こった理由とは?

孝明天皇は、井伊直弼が勝手に、日米修好通商条約を結んだことに激怒して、攘夷を実行して欲しいと、水戸藩に密勅(みっちょく:天皇の命令)を出します。

 

通常は、幕府に渡されるものですが、幕府を通り越して、水戸藩に下されたのです。

 

このことは、幕府をないがしろにした由々しきこととだったのです。

 

そのため、井伊直弼は、南紀派の敵、つまり一橋派ら関係者を処罰することにしたのです。

 

これが、安政の大獄の真相だったのです。

 

そして、その密勅を返すように幕府は、水戸藩に迫りますが、期限を設けて、それに遅れるようであれば、水戸藩を潰すぞ!と直弼が息巻きます。

 

このことが、井伊直弼暗殺の決定打となってしまうのです。

 

過激な尊皇攘夷派の水戸藩士らは、水戸藩を脱藩し、水戸浪士として、17人が集まります。そして、唯一、有村次左衛門という薩摩藩の浪士が加わり、18人で井伊直弼暗殺グループが結成されてしまうのでした。

 

桜田門外の変 薩摩浪士ただひとりなぜ?

1860年(安政7年)3月、雪の降る江戸城。

 

白昼堂々と、江戸城桜田門まで、わずか500mというところで、井伊直弼が、暗殺グループに突然襲われます。

 

そうです。水戸浪士たち18人が井伊直弼が乗った駕籠に、ピストルが打ち込まれ、一斉に、直弼に襲い掛かりました。

 

血だらけになり、動けなくなった井伊直弼を駕籠から引きずり出し、トドメをさすのでした。

 

この駕籠から引きずり出して、トドメを刺した人物が、薩摩浪士の「有村次左衛門」だったと伝わっています。

 

有村は、薩摩からただひとり、井伊直弼の暗殺に加わった人物でした。

 

薩摩藩は、水戸藩とつながっていましたが、藩主・島津斉彬が急死した時期でもあったため、井伊直弼に逆らわないようにしていたのです。

 

ですが、どうしても、ゆるせない、有村は、水戸浪士と手を組、井伊直弼暗殺に加わったのです。

 

当然、これによって、有村は、薩摩藩を脱藩せざるを得なくなり、浪士として、暗殺に加わりました。しかし、直弼のトドメを刺しましたが、すぐに、彦根藩士らによって、反撃され、あえなく討たれてしまうのです。

 

有村は、本懐だったのはないでしょうかね?^^;

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

今回は、井伊直弼と桜田門外の変について、お勉強しました。

 

この事件によって、いよいよ、倒幕へと進んでいきます。

 

激動の幕末を経て、明治維新へとつながっていきますね。

 

そこには、どのような点や流れがあるのでしょうか?

 

楽しみにお待ちくださいね。^^

 

それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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