阿部正弘とは?ペリーとの日米和親条約で鎖国終了?その評価は?
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江戸時代初期から幕末にかけて、日本独特の政治体制であった「鎖国」。
徳川家光の時代にその体制が完成し、それから約200年間、幕府は、オランダと中国だけに貿易を許してきました。その他の諸外国とは一切親交をシャットアウトしてきたのです。
よく200年もこの体制が続いたと思いますが、とうとう、それも終焉を迎える時がやってくるのです。^^
それが、あの驚異の「黒船」の来航だったのです。
この黒船の来航をきっかけに、幕府は、開国せざるを得なくなり、鎖国が崩壊していくのです。
そこで、今回の歴史は、鎖国が終了して、日本が開国へと向かうことになるまでの流れを簡単にわかりやすくまとめてみますよ。^^
具体的には、「黒船、ペリー」という点と「阿部正弘」という点を結びつけると「日米和親条約」という点に結びつきます。この流れこそ、日本の鎖国が終了し、激動の幕末へ向かう流れなのです。
ぜひ、ごゆっくり、お楽しみくださいね。^^
黒船はなぜ日本にやってきたのか?
(黒船(ペリーが搭乗していたサスケハナ号) 出典:wikipedia)
黒船が来たのはいつ?どこに来たの?
黒船は、1853年(嘉永6年)、神奈川県の浦賀に来航しました。
ペリーが搭乗していた「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「サラトガ」、「プリマス」の4隻が浦賀にやってきたのです。これらが黒船なのです。^^
圧巻のあの黒い船はなんだ?
と当時のひとたちは、腰を抜かしたことでしょうね。
その巨大な大きさに、外国の技術力の高さを感じとった人たちもたくさんいました。
その代表的な人物が吉田松陰ですね。^^
吉田松陰は、黒船に乗り込んで外国に渡ろうとしますが、見事に失敗してしまいます。^^;
それほど、超魅力的な大物だったんですよね。黒船は。
黒船が日本に来たのはなぜ?
そんな黒船ですが、なぜ日本に来たかというと、アメリカがアジア拠点を欲しかったからです。
アメリカは、産業革命でノリに乗っているイギリスやフランスに大きく遅れをとり、インドや中国などのようなアジア市場が欲しかったのです。
そこで目をつけたのが、日本でした。
ですが、当時の日本は、鎖国だったため、アメリカとの貿易はできなかったのです。
そのため、アメリカは、強行突破で、日本に迫ろうとしたのです。
アメリカ大統領の国書を持参して、開国させるために、黒船たちは日本にやってきたのです。
浦賀についてからは、いわゆる威嚇攻撃っていうやつで、大砲で脅しにかかるのです。
脅してやれば、中国のようにきっと降伏するだろうと考えていたのでしょう。
1853年に来航したときには、日本の回答を先延ばしさせ、いったんはアメリカに戻りますが、翌年、また黒船がやってきます。
この時には、7隻の黒船たちがやってきたのです。
そして、日本は、「日米和親条約」を結ぶことになってしまうのです。
ペリーとは?
(ペリー 出典:wikipedia)
ペリーは、アメリカの東インド艦隊司令長官という立場でした。
マシュー・カルブレイス・ペリーと言い、1794年4月10日に生まれています。
浦賀に来航したのが1853年で、死去したのが1858年と伝えられていますので、日本に来て、5年後には亡くなっていたのですね。
当時の文書などでは、ペリーのことを「ペルリ」と呼んでいたそうです。確かに大河ドラマなどでは、よく「ペルリ」と言っていましたよね。
ペリーは、第13代・アメリカ大統領である「ミラード・フィルモア」大統領の国書を持参して、日本にやってきます。
ペリーは、日本に開国を迫るに当たり、威嚇攻撃で、大砲の空砲をうちながら、江戸湾の奥まで進行してきたそうです。
1度は、アメリカに戻りますが、翌年、7隻の黒船を率いて、やってきます。
そして、ついに、日本の開国に成功するのです。
このとき、下田(静岡県)と箱館港が開かれたのでした。
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阿部正弘とは?
(阿部正弘 出典:wikipedia)
阿部正弘は、18歳で福山藩(現・広島県福山市)の藩主となり、12代将軍・徳川家慶公にその能力を認められた人物です。
さらに、25歳という若さで「老中」に就任します。
黒船がやってきたころには、阿部正弘は、老中首座についていて、この阿部正弘が、中心となり、ペリーの要求を検討することになったのです。
かなりの重責ですよね。
回答ひとつで、日本の将来が大きく変わることが分かっていたでしょうから、正弘はかなり悩んだと思います。
ペリーから港を開いて欲しいと言われても、はい、分かりましたとは到底言えないですから、とりあえずは検討するので、1年後まで待ってくれないかと、ペリーをいったんアメリカに返すことに成功します。
その間、阿部正弘が独断で決めることもできず、朝廷や、諸大名と相談します。
ですが、これが、かえって、幕府の権威を落としてしまうことになってしまうのです。
松平春嶽(慶永)や島津斉彬、徳川斉昭などの力が増して、発言力も強くなるのです。逆に、幕府の発言力が弱まっていくという、なんとも皮肉な結果になっていくのですね。^^;
諸大名らと相談しても、良い答えが見つからず、あれよあれよという間に、またペリーがやってきてしまうのです。
そうして、阿部正弘は、アメリカと戦っても、日本は負けると分かっていたため、やむなく、アメリカの要求を受け入れます。こらが、「日米和親条約」だったのです。
その後、安政の改革として、江戸湾に砲台を築いたり、長崎の海軍伝習所や洋学所を設置したり、海軍の軍事力の強化に乗り出すのです。
ちなみに、長崎の海軍伝習所は後の、「日本海軍」、洋学所は、「東京大学」の前身となったところだそうですよ。
ですが、外国勢力を追い払えという、いわゆる攘夷派の動きが活発になってきて、阿部正弘が条約を結んだことに反対する人たちが増え始めます。
その重圧に体が病んでしまったのでしょう。
わずか、39歳という若さで亡くなってしまうのです。
後任には、堀田正睦が老中首座として就任するのでした。
日米和親条約とは?
アメリカが東アジアとの貿易を行うにあたり、太平洋の航路が必要でした。
航行するにも、当時の蒸気船では十分な燃料を積めなかったため、補給基地として、日本の港が欲しかったのです。
そして、その港として、利便性を考慮し、「下田」と「箱館」が選ばれたのでした。
ですので、日米和親条約とは、これらの補給に関することや、人身保護を目的として、全文13条で作られたのです。
この条約が締結されたことにより、これまでの幕府の鎖国は終りを告げ、開国するのか、外国人を排除する攘夷なのかに大きく分かれていく、幕末へと流れていくことになるのです。
参考として、日米和親条約の条文を引用させていただきますね。^^
日米和親条約
第1条
日米両国・両国民の間には、人・場所の例外なく、今後永久に和親が結ばれる。
第2条
下田(即時)と箱館(1年後)を開港する(条約港の設定)。この2港において薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。
物品の値段は日本役人がきめ、その支払いは金貨または銀貨で行う。
第3条
米国船舶が座礁または難破した場合、乗組員は下田または箱館に移送され、身柄の受け取りの米国人に引き渡される。
避難者の所有する物品はすべて返還され、救助と扶養の際に生じた出費の弁済の必要は無い(日本船が米国で遭難した場合も同じ)。
第4条
米国人遭難者およびその他の市民は、他の国においてと同様に自由であり、日本においても監禁されることはないが、公正な法律には従う必要がある。
第5条
下田および箱館に一時的に居留する米国人は、長崎におけるオランダ人および中国人とは異なり、その行動を制限されることはない。
行動可能な範囲は、下田においては7里以内、箱館は別途定める。
第6条
他に必要な物品や取り決めに関しては、両当事国間で慎重に審議する。
第7条
両港において、金貨・銀貨での購買、および物品同士の交換を行うことができる。
交換できなかった物品はすべて持ち帰ることができる。
第8条
物品の調達は日本の役人が斡旋する。
第9条
米国に片務的最恵国待遇を与える。
第10条
遭難・悪天候を除き、下田および箱館以外の港への来航を禁じる。
第11条
両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヶ月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる。
第12条
両国はこの条約を遵守する義務がある。
両国は18ヶ月以内に条約を批准する。
また、下田条約では次のような細則が定められた。
アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、箱館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。
アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。
アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。出典:wikipedia
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、鎖国の終焉について取り上げてみました。
激動の幕末へとつながる重要な点である日米和親条約。
その点を作り上げた、黒船やペリー、そして老中・阿部正弘。
阿部正弘は、とても優秀とも、無能とも伝わっています。評価が分かれる人物でもあるのですね。
ですが、今になって思えば、いつまでも鎖国を続けていくことは不可能だったと思いますので、阿部正弘の先を見る力があったからこそ、日本は植民地にもならず、苦難を乗り越えられたのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
大奥の女性にも人気のあった老中・阿部正弘。大奥の女性に気に入られるのは、優秀である以上に、幕府を切り盛りするうえで、とても重要だったようです。
堀田正睦以降の老中や、大老・井伊直弼は、大奥に気に入られていなかったのではないでしょうか?^^;
女性を敵に回すと、うまくいかないのは、今も昔も同じなのかもしれませんね。^^
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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