浅井長政の城や家紋は?お市・織田信長との関係は?娘や子孫は?

      2017/10/16

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今回は、「浅井長政(あざいながまさ)」という人物を取り上げますよ。^^

 

歴史を覚えるコツは、点と線をセットで覚えることです。

 

まず、歴史の結果である「点」を示し、なぜそのような結果(点)になったのかという「線」を分かりやすく簡単に解説していきます。

 

そうすることで、スッキリ覚えられるようになりますよ。^^

 

では、楽しみながら進めていきましょう。

 

浅井長政のプロフィール

まず、基準となる浅井長政のプロフィールを確認しておきましょう。

 

浅井長政のことをザックリ把握した上で、他の点との関係を見ていきましょうね。

(浅井長政 出典:wikipedia

 

浅井長政の生年月日は?

1545年(天文14年)8月28日に、六角氏の居城だった、観音寺城(現・滋賀県近江八幡市安土町)で生まれました。

 

父は、浅井家2代当主の浅井久政、母は、小野殿と呼ばれ、近江(現・滋賀県長浜市高月町井口)の豪族・井口経元の子として伝わっています。

 

長政は、幼名を「猿夜叉丸」と言いました。なんとも、猿?ですか^^;

 

浅井長政の兄弟姉妹は?

浅井長政の兄弟姉妹は、姉に「京極マリア」、弟には、政元、政之らがいます。

 

弟たちは、兄・長政の補佐役として活躍しました。

 

政元は参謀として浅井家を支え、長政とともに小谷城落城の際、自害してしまいます。

 

政之は、姉川の戦いにて、討ち死にしてしまうのです。

 

京極マリアは、京極高吉の奥さんになり、キリシタンとなった人です。京極高吉と京極マリアの間に生まれたのが、「京極高次」。そして、「竜子」なのです。

 

京極高次は、浅井長政の次女「初」を娶りました。そして、竜子は、後に、豊臣秀吉の側室になる人ですよ。^^

 

けっこう、浅井長政の血縁者は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に関係が深く、戦国のクライマックスには欠かせない役割をする人たちが多く登場するのです。その話は、またあとで。

 

浅井長政の居城は?

浅井氏は、北近江の長浜(滋賀県長浜市湖北町伊部)に築かれた山城である「小谷城(おだにじょう)」を居城としていました。

 

この城は、浅井長政最期の地として、織田信長との戦いにやぶれ自害した場所でも知られていますよ。

 

そして、豊臣秀吉により、北近江の拠点が小谷城から長浜城に移転されたため、小谷城は廃城になってしまったのです。T-T

小谷城の歴史を簡単にわかりやすく!地図やアクセス情報も!

 

浅井長政の家紋は?

(浅井家家紋 出典:https://sengokumiman.com

 

浅井家の家紋は、「三盛亀甲剣花菱(みつもり きっこう けんはなびし)紋」と言って、亀甲紋(きっこうもん)という部類の家紋になります。

 

亀は、鶴と並んで長寿の生き物としてめでたいものとされ、家紋にも多く取り入れられています。

 

また、亀甲紋は、出雲大社や厳島神社の神紋でもあり、長政の肖像画にも、入れられていますね。

 

浅井長政の生涯を点と線で結びつける

それでは、浅井長政の生涯を点と線で結びつけていきましょうね。^^

 

まず、最初に点を挙げます。ザクッと以下の4つです。

 

  1. 浅井家の成長
  2. 織田信長との同盟(浅井長政とお市の方・織田信長との関係は?)
  3. 織田信長との同盟破棄
  4. 浅井家の滅亡(お市の方・娘(浅井三姉妹)・子孫はどうなった?)

 

それぞれ見ていきましょう。

 

浅井家の成長とは?

(六角義賢(承禎) 出典:wikipedia

 

室町時代後期、北近江の守護であった「京極氏」、南近江の守護であった「六角氏」。

 

両氏は、ライバルでした。

 

しかし、もともと京極氏の家臣だった「浅井氏」が、戦国のならいで、京極氏を倒し、北近江を制したのでした。それを成し遂げたのが、初代浅井氏当主の浅井亮政(すけまさ)でした。

 

ですので、それ以降は、浅井氏と六角氏のにらみ合いとなったのです。

 

ですが、2代・浅井久政の代になると、浅井氏の力が弱まり、六角氏の臣下になっていました。長政と母・小野殿が六角氏の人質になっていて、かろうじて、北近江を守っていた状態だったのです。

 

その状態をよく思っていなかった浅井氏の家臣たちに不満が募ります。

 

そんな折、長政が15歳で元服します。

 

六角氏は、力関係をはっきりさせるため、当時の当主・六角義賢(よしかた)が、自分の一字をとって、長政の名前を賢政(かたまさ)と名乗らせました。さらに、六角氏の家臣である平井定武の娘を正室に迎えさせたのです。

 

六角義賢は、六角承禎(じょうてい)の方が有名かもしれませんね。

 

ですが、長政は、六角氏に追従する気はなく、また、家臣も不満が募っていたため、六角氏を倒すべく戦を始めたのです。

 

この戦は、野良田の戦いと呼ばれ、長政が六角氏を倒し、北近江の覇権を確実なものにしたのです。また、長政の父・久政を、琵琶湖の北部にある竹生島に追放し、隠居させたのです。

 

これにより、北近江の3代当主・浅井長政が誕生したのです。

 

このあたりは、武田信玄が父・信虎を追放したのに似ていますね。^^

 

この父に任せていたら、お家が危ういと察知したのでしょうね。長政も。

 

ということで、浅井氏と六角氏は対等な立場となっていくのでした。

 

ちなみに、結婚させられた、平井定武の娘とは離縁し、六角氏に返したのです。そして、名前も賢政を返上し、「新九郎」と元に戻したのです。長政という名前は、信長からの「長」をもらったとする説が有力だそうですよ。

 

織田信長との同盟(浅井長政とお市の方・織田信長との関係は?)

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織田信長は、美濃の斎藤氏攻略に苦戦していました。

 

そこで、信長はいろいろ考えた結果、斎藤氏攻略の糸口として、北近江の浅井長政に目をつけました。

 

浅井長政と同盟を結ぶことで、斎藤氏攻略の足がかりになり、上洛するための近江口を確保することができるようになると考え、信長は、妹の「市(いち)」を浅井長政に嫁がせたのでした。これは、まぎれもない政略結婚だったのです。

(お市の方 出典:wikipedia

 

ですが、最初こそ、織田家のために、寝首をかいてごらんに入れますと強がっていたお市でしたが、戦国でも珍しいくらいに仲睦まじい、おしどり夫婦になっていたのです。なんとも微笑ましいですよね。^^

 

まあ、信長も、浅井長政と同盟が結べることに大いに喜んで、婚儀の費用を全額負担したほどでした。通例では、嫁をもらう側が費用を負担するべきところでしたので、信長の喜びっぷりが伝わってきますね。^^;

 

ですが、浅井氏側が喜んで織田と手を結んだのかというとそうではなかったのです。その理由は、盟主「朝倉氏」のことが気がかりだったからです。

 

朝倉氏は、浅井氏とは盟友の仲であり、そして当主・義景は、織田信長と敵対していたのです。ですので、朝倉氏を気遣い、織田と手を組むのはどうかな?という反対意見が大多数だったのです。

 

そこは、信長が一枚も二枚も上手だったのです。

 

朝倉氏には手を出さないという約束を交わし、浅井長政と同盟を結ぶことに成功したのでした。

 

この同盟こそ、浅井氏滅亡への序章だったのですね。^^;

 

織田信長との同盟破棄

織田信長は、斎藤龍興をやぶり、美濃攻略に成功しました。

 

そして、上洛すべく、浅井氏の敵でもある六角氏をやぶり、朝倉義景を見限った足利義昭を奉じて、上洛をはたしたのです。

 

破竹の勢いの織田信長でした。

 

そして、上洛参集に応じなかった朝倉義景を討つことを決意してしまうのです。

 

さあ、ここからが苦悩の浅井長政です。

 

義兄弟の契りを結んだ長政と信長ですが、盟友の朝倉義景を裏切ることはできなかったのです。

 

苦渋の決断で、長政は信長を見切り、盟友・義景とともに、織田を討つことに決めたのでした。

 

なんとも、ここらへんから、長政に哀愁が漂い始めます。^^;

 

浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が姉川で決戦することになりました。

 

これが、姉川の戦いです。場所は、滋賀県長浜市姉川河原あたりです。

 

ここら辺の地名で「血原」や「血川」があるそうですが、この姉川の戦いにちなんで付けられたとか。

 

ちなみに、この戦いにより、長政の弟・政之は討死してしまうのです。

 

最初、織田・徳川連合軍は、浅井氏の攻撃に苦戦しますが、結局は、織田・徳川連合軍の勝利に終わります。

 

その勢いで、信長は、浅井氏の居城「小谷城」も一気に落とそうと考えますが、難しいとわかり、いったんは退却したのでした。

 

姉川の戦いとは?合戦の場所は?地図で布陣図もわかりやすく解説!

 

浅井家の滅亡(お市の方・娘(浅井三姉妹)・子孫はどうなった?)

織田信長は、機を見て、再び、北近江に進行します。

 

そして、浅井長政は、盟友・朝倉義景に援軍を頼みます。

 

しかし、いったんは加勢に2万の軍勢を送った義景ですが、信長の軍勢の勢いが強すぎて、結局ろくに援軍を出せずに、義景の居城、越前の「一乗谷城」に引き返すのでした。

 

しかし、この隙を逃さず、信長は、朝倉義景を攻めて、とうとう、朝倉氏を滅亡させてしまうのです。これが、「一乗谷城の戦い」です。

 

そして、さらに、浅井長政の居城・「小谷城」を目指し、一気に落としてしまったのです。

 

これが、小谷城の戦いです。

小谷城の戦いとは?浅井長政最後の決戦!その後も分かりやすく!

 

信長は、浅井長政に降伏を勧めましたが、頑として聞き入れなく、長政は、妻のお市や娘たちを信長のもとに返し、小谷城で自害して果てたのでした。享年29でした。お墓は、滋賀県長浜市の徳勝寺にあるそうですよ。

 

これにより、浅井氏は滅亡してしまうのです。T-T

 

残された、お市は、娘たち(茶々・初・江)らと、信長のもとに戻ることになったのですが、そこからは、またまた数奇な運命が待っているのです。

 

信長が生きていた間は、まだよかったのですが、信長が本能寺に倒れてから、次の織田家の当主をどうするのかで家中がもめだします。

 

そこから、後継者さわぎで、最終的に、豊臣秀吉と柴田勝家が対立し、豊臣秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝利し、秀吉が織田家の後継者として押した信長の孫・三法師、のちの織田秀信の後見となりました。これは、実質、秀吉が後継者として認めざるを得ない状況になったということでした。

 

この賤ヶ岳の戦いで、破れた柴田勝家と、その勝家に嫁いでいたお市は、共に自害してしまうのです。

 

そして、娘たちは、それぞれ、豊臣、徳川と深い結びつきとなるのです。

 

長女の茶々、のちの淀君は、豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産みます。次女のは、京極高次に嫁ぎ、豊臣家と徳川家の争いを鎮めるため、和議の使いとして、奔走する役目を担うのです。これは、大阪冬の陣のときになります。

(茶々 後の淀君 出典:wikipedia

 

(初 出典:wikipedia

 

さらに、三女のは、徳川秀忠に嫁ぎ、3代将軍・家光を産みます。

 

(江 出典:wikipedia

 

ですから、豊臣秀頼、徳川家光のおじいちゃんは、浅井長政なんですね。^^

 

ちなみに、徳川秀忠とお江の娘、勝姫の子孫は、大正天皇の皇后、貞明皇后であり、昭和天皇のお母さん、平成天皇のおばあちゃんなんですね。なので、現在の天皇家の祖先はお江の血を引いているのです。^^

 

やっぱり、浅井長政ってすごいじゃあないですか。^^

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

今回は、歴史が苦手な人でも分かる!浅井長政をお伝えしました。

 

浅井長政の生涯が少しでもスッキリ伝わったなら嬉しいです。^^

 

それでは、次回の歴史が苦手でも分かるシリーズにご期待下さいね。

 

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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