鎖国時代の貿易を幕府がオランダや中国とだけ続けた理由とは?

      2017/07/27

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鎖国の時代、日本という殻に閉じこもるがごとく、外国との関係を一切閉ざしていた!

というようなイメージを持っている人も多いと思いますが、実はそうではないのです。

「鎖国」という言葉自体も当時は使用していなかったそうですし、そもそも当の幕府側も国を閉ざすというつもりはなかったのです。

そのため、最近では、「鎖国」という表現を改める動きも出てきて、教科書検定でも取りやめる方向になりそうだとか・・・。ですが、とりあえずは、まだ継続するようですよ^^;

いずれ、鎖国という用語自体がなくなる時が来るかも知れないです。自分たちが学校で習ってきた歴史がどんどん変わっていきますよね。

まあ、歴史というものは、史実といえど、どこまでが本当だったのかという疑問はあります。ですが、それを想像したりするのも歴史の楽しみでもありますけどね。

ということで、前置きが長くなりましたが、鎖国時代に幕府は、オランダと中国との貿易を続けていました。また、幕府が管理する長崎以外でも外国との貿易が行われていたのです。

なぜ、オランダと中国だったのでしょうか?理由が気になりますね。^^

また、幕府管理以外ではどこが開かれていたのでしょうか?

そのあたりをザクッとまとめてみました。

 

幕府がオランダや中国と貿易を続けた理由は?

そもそも日本は、中国や朝鮮などとは古くから貿易は行っていましたが、ヨーロッパとの貿易は、信長の時代からになります。ポルトガルのキリスト教宣教師たちが日本にやってきて布教活動を信長に許可されたことで交流がはじまったのです。

さらにはスペイン、イギリス、オランダとも貿易を行うようになったのでした。

ここで、重要なのは、ポルトガルとスペイン、イギリスとオランダは、日本との交流の目的が違っていたのです。

ポルトガルやスペインの狙いは、諸外国と同じように、日本の植民地化だったと言われています。イギリスも同じような狙いがあったかもしれませんが、当時は、国内の諸事情で、日本との貿易から撤退してしまったため、とりあえず除外します。

対してオランダは、貿易のみを目的としていたのです。

信長が天下をとっていたら状況はまた違っていたかもしれませんが、信長が本能寺に倒れ、秀吉の時代になると、キリスト教信者の勢力があなどれないほどに膨れ上がり、これは本当に日本を乗っ取られる!と秀吉も思ったのでしょうね。

秀吉は、宣教師たちを追放します。これがバテレンの追放令ですね。

しかし、宣教師たちが追放されても、キリシタンたちは、九州を中心に勢力を増していったのです。

ついには、小西行長や有馬晴信などのキリシタン大名も誕生したのです。

そして、時代は家康の時代になり、関ヶ原で敗退した小西行長の家臣たちや有馬晴信の家臣たちが浪人となり、その数も膨大になり、さらには、農民などのキリシタンたちも当時の藩主の悪政に苦しめられ、ついには反乱し、やがて幕府への反乱に発展してしまった「島原の乱」を引き起こすのです。

島原の乱とは?真実を知りたい!原因やその後もわかりやすく

 

この一連の流れの根底は、「キリシタンの弾圧」なのです。

脅威となるキリシタンを潰したいという思いだったのです。

こうした理由から、幕府は、キリスト教国であるスペインやポルトガルとの貿易をやめ、脅威を排除したのです。

そのため、結果として、オランダが残り、オランダとの貿易が続いたということです。中国とは以前から貿易をしていたので、そのまま継続という感じだったのでしょう。^^

 

鎖国時代の貿易の4つの窓口(四口)とは?

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ちなみに、幕府は、長崎を直轄地として、オランダ、中国との貿易を行いました。しかし、それ以外にも幕府が他藩に権限を与え、貿易を行っていたのです。長崎を含めた港が4つあったので、4つの窓口とも「四口」とも言われているのです。

では、その四口とはどこだったのでしょうか?

 

長崎口

長崎口は、オランダと中国(清国)との貿易を行う窓口でした。

長崎は幕府の直轄地として幕府の管理で貿易が行われていたのです。

 

対馬口

対馬口は、朝鮮との貿易が行われていました。

管理は、対馬藩で、宗氏は中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担っていたのです。そのため、幕府も宗氏に任せたのでしょうね。幕府の朝鮮との外交は、対馬藩が中継ぎをしていました。

 

薩摩口

薩摩口または琉球口は、琉球王国との貿易を行っていました。

管理は、薩摩藩で、琉球王国を支配下にしたことが評価され、琉球を通じての貿易を任せられたのです。

 

蝦夷口

蝦夷口は、アイヌとの貿易を行っていました。

管理は、松前藩で、松前氏は蝦夷地で北方貿易を行っていました。そのため、対馬藩同様、松前藩も、引き続きの貿易を認められたのです。松前藩の経済を支えたのが、北方貿易だとも言われています。

 

まとめ

勘違いされることが多い「鎖国」ですが、

鎖国という言葉は江戸時代後期の頃のようです。開国するあたりでしょうかね?

つまりは、ペリーが黒船でやってきたあたりまでを鎖国というようですが、黒船が来た前と後を表す言葉が欲しかったのかもしれないですね。と勝手に推測です^^;

幕府が日本を救おうとしたというよりは、幕府が外敵から潰されるのが怖かったので、強権で追放したという感じでしょうかね。いずれにしても、幕末の頃と比べると、やはり、徳川の力は強かったんですね。^^

それでは、今回もありがとうございました。

 

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