方広寺鐘銘事件とは?大坂冬の陣が起きた理由もわかりやすく解説!
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方広寺鐘銘事件とは、どんな事件だったのでしょうか?
読み方は、「ほうこうじしょうめいじけん」と読みます。
この鐘銘事件がのちの大坂冬の陣へとつながっていくのです。
今回は、方広寺鐘銘事件とは何か?なぜ大坂冬の陣につながったのか?について簡単にわかりやすくまとめてみますね。
それでは、ごゆっくりお楽しみください。^^
目次
方広寺鐘銘事件の点と線とは?
方広寺鐘銘事件とは何だったのでしょうか?
今回の点と線をまずは、定義しておきましょう。
方広寺鐘銘事件の点とは?
方広寺鐘銘事件の点、つまり、登場人物です。
今回は、事件を起こした側と、起こされた側で見てみますよ。
事件を起こした側は?
方広寺鐘銘事件を起こした側の人物は、徳川家康になります。
(徳川家康 出典:wikipedia)
徳川家康は、江戸幕府を開き、初代・徳川将軍になりましたが、わずか2年ほどで、息子の秀忠に将軍職を譲ります。
こうすることで、天下は、徳川のものだぞ!と知らしめたかったのです。
豊臣秀吉が亡くなったあとの豊臣家を必死で守ろうとした石田三成は、関ヶ原で破れ、その後は、息子の豊臣秀頼、と生母・淀殿が中心となり、豊臣家を盛り立てていました。
豊臣家も、家康同様に、まだ天下人だぞ!と思っていたのです。その証拠に、まだまだ豊臣を支持する大名はいたのです。^^
そのようなにらみ合い状態が関ヶ原以降、約10年も続いていました。
徳川家康は、天下人になるために、どうしても、豊臣がじゃまでした。
なんとしても、豊臣を滅ぼしたいとずっと思っていたのです。^^;
事件を起こされた側は?
一方、方広寺鐘銘事件を起こされた側の人物は、豊臣秀頼になります。
(豊臣秀頼 出典:wikipedia)
豊臣秀頼は、とても、優秀な人物でした。
肖像画は、一見頼りなさげな印象ですが、家康も一目置くほどに、立派に成長していたのです。
ですが、悲劇とは、自分だけのせいでなるわけではないということが豊臣家を見ていてもわかります。^^;
生母である淀殿や大野治長など、周りの人たちが、秀頼の足をひっぱってしまうのです。
いずれ起きる「大坂冬の陣」では、それが顕著に出てしまうのです。
大将だった「真田幸村」の意見を秀頼が、周りを気にせず、しっかり取り入れていれば、大坂冬の陣も、違った結果になったろうと思うと、切ないですね。^^;
方広寺鐘銘事件の線とは?
では、次に、方広寺鐘銘事件の線についてです。
線は、方広寺鐘銘事件が起こった背景や理由です。そして、その後どうなったのかという流れのことになります。
つまり、方広寺鐘銘事件はなぜ起きたのか、どうやって起きたのか?そして、どうなったのか?という一連の流れとなりますね。
この事件の到達点は、「大坂冬の陣」なのです。
方広寺鐘銘事件とは?
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では、方広寺鐘銘事件の流れに沿って、簡単にわかりやすくまとめていきますよ。^^
方広寺鐘銘事件の背景は?
方広寺鐘銘事件が起きるきっかけとなったのは、そもそも、豊臣秀吉が京都の方広寺に大仏を建立したことにはじまります。
京都の大仏とは?いつ誰が建てた?奈良や鎌倉よりも高い理由は?
秀吉は、奈良の東大寺よりも高い、日本一高い大仏を方広寺に建てたのです。
ですが、この大仏さん、けっこう悲運だったのです。^^;
この大仏さんは、地震や火事、雷などで壊れてしまっては、再建してということを繰り返していて、昭和48年に消失するまで、4代の大仏さんが造営されてきました。
ですから、現在は、存在しない大仏さんなのです。
で、最初に秀吉が建てた初代・京都の大仏さんは、地震で倒壊し、その後再建されないまま、秀吉は亡くなってしまいます。
秀吉の遺志は、息子の豊臣秀頼が引き継ぎ、2代目の京都の大仏を造営することになるのです。
この時には、徳川家康も、諸大名に、費用の負担を命令したり、大工を派遣したり、協力していたのです。
慶長19年(1614年)に、2代目の大仏さんが完成します。
そして、問題となる、「梵鐘(ぼんしょう)」も大仏殿に完成するのです。
この2代目大仏の建立の総奉行をしていた「片桐且元」は、仕上げとして、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓という人物に選ばせたのです。
この梵鐘の銘文が、のちに波紋を広げることになるのでした。^^;
方広寺鐘銘事件が起きた理由とは?
片桐且元は、秀吉の遺志でもあったため、なんとしても大仏の再建を実現したかったでしょうね。
そして、立派な銘文を入れた梵鐘を完成させたかったのでしょう。
片桐且元は、入念にチェックしたはずでした。
しかし、銘文の内容が、徳川家康の怒りをかってしまったのです。
その内容とは、
銘文の一節に、「国家安康」、「君臣豊楽」という記載がありました。
「国家安康」は、家康という字が離れているではないか!
それに比べて、「君臣豊楽」は、豊臣は離れていないではないか!
家康は、林羅山にその銘文を解読させ、この「国家安康」は、徳川を呪詛していると解釈して、そうであると断言したそうです。
これをによって、言いがかりともとれる、無理矢理なこじつけともとれる理由で、「許せぬ!」ということになったのです。
(方広寺の鐘銘 出典:wikipedia)
しかし、最近では、家康のこじつけというよりは、片桐且元の豊臣方が軽率だったのではないかという見方が多いようですよ。
確かに、名前を引き裂かれたような印象を受けますよね。^^;
「国家安康」って。家と康の間に「安」という文字が入ってますから、なんか軽く見られているとも思われてもしょうがないような気もします。
家康は、本気で激怒したのかもしれませんね。
方広寺鐘銘事件はどうなった?
結局、この事件で、片桐且元は、豊臣家から信用を失います。
そして、且元は、恩義のある豊臣家から離れて、徳川家康のもとを頼ることを決意するのです。
それは、徳川家康に、家臣にならないかとの誘いを受けていたのこともあったのでしょう。
ですが、そんなに優しく甘い家康ではありませんよね。^^;
且元は、家康に頼りにされていると勘違いをして、大坂城の機密情報を家康に漏らしてしまうのです。
それは、淀殿がいる部屋や秀頼がいる部屋などの場所を教えてしまったのです。
それは、やがて、大阪夏の陣で、大坂城に大砲が打たれたとき、淀殿の部屋を狙ったとか。
大坂城落城につながる有力な情報だったのです。
いずれにしても、家康側は、豊臣方の有力な情報を得ながら、ついに、豊臣家滅亡させるため、大坂城に向かったのでした。
慶長19年(1614年)12月、とうとう、徳川と豊臣の決戦である、「大坂冬の陣」が始りました。
大坂冬の陣、大阪夏の陣については、また別な記事でまとめてみますので、そちらもお楽しみに。^^
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、方広寺鐘銘事件について、その背景や理由、そして、大坂冬の陣が起こった理由までをまとめてみました。
このあたりの話は、いつ見ても、聞いても、秀頼の行動に歯がゆさを感じます。
せっかく、真田幸村をはじめ、屈強な浪人衆が大坂に結集したにも関わらず、周りの意見に左右され、秀頼は、自身の考えを押し通せなくなってしまいます。
そこをあと一歩、踏み出す勇気があれば、違っていただろうにと思えてなりません。
それでは、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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