吉野ヶ里遺跡とは戦国顔負けの戦乱の場所?弥生時代のお城?

   

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皆さんは、弥生時代というと、どのようなイメージをお持ちでしょうか?

 

恐らく、平和でのどかな時代。村が出来て、稲作が始まり豊かになっていった時代。

 

そのような感じでしょうか?

 

しかし!

 

実は、弥生時代も戦国時代さながらに戦に明け暮れていたと言ったら驚きますか?

 

驚きますよね。^^;

 

でも、弥生時代も、戦国時代顔負けの戦があったそうなんですよ。

 

それを証拠づけたのが、「吉野ヶ里(よしのがり)遺跡」なんですね。

 

では、この吉野ヶ里遺跡とはどのような遺跡なのでしょうか?

 

なぜ、戦乱があったとされたのでしょうか?

 

今回は、吉野ヶ里遺跡を取り上げてみますよ。

 

最後まで、ごゆっくり。^^

 

吉野ヶ里遺跡とは?

(吉野ヶ里遺跡の遠景 出典:wikipedia

 

1990年前後、邪馬台国の場所をめぐって、再び盛り上がっていた時期がありました。

 

かねてから、九州にあったとする説と、畿内にあったとする説がぶつかり合っていましたが、それに輪をかけて盛り上がってしまったのです。

 

その発端が、1986年からの発掘調査で発見された「吉野ヶ里遺跡」だったのです。

 

佐賀県にある吉野ヶ里遺跡の発見によって、これこそ、邪馬台国だ!やっぱり、邪馬台国は九州にあったと声高に叫び、やがてそれが「邪馬台国論争」に発展していったのです。

 

では、この吉野ヶ里遺跡とはどのようなものなのでしょうか?

 

まずは、軽くおさらいしておきましょう。^^

 

吉野ヶ里遺跡はどこにある?

吉野ヶ里遺跡の場所は、以下になります。

 

  • 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1869

アクセスは、それぞれ自動車と鉄道とバスがあります。

  • JR長崎本線吉野ヶ里公園駅より東口(メインゲート)まで約700m
  • JR長崎本線神埼駅より西口まで約600m
  • 西鉄天神大牟田線西鉄久留米駅、JR鹿児島本線久留米駅よりバス(40系統)、田手停留所下車。(西鉄バス神埼線)
  • 福岡空港より吉野ヶ里歴史公園経由佐賀第二合同庁舎行き高速バス(1日1往復のみ)乗車、吉野ヶ里歴史公園前下車。(西鉄バス福岡空港線)
  • 自動車にて福岡・大分方面からは、長崎自動車道東脊振ICにて国道385号を南下。東脊振ICより約5分。
  • 自動車にて佐賀方面からは、国道34号または県道269号にて東へ。
  • 自動車にて熊本方面からは、国道208号・国道385号を北上。

出典:wikipedia

 

吉野ヶ里遺跡はいつ発見された?

吉野ヶ里遺跡は、1986年からの発掘調査によって発見されました。

 

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡で、国の特別史跡に指定されていますよ。^^

 

広さは、約50ヘクタールで、東京ドームの約10個分に相当する広さです。

 

この広大な土地に、吉野ヶ里遺跡があり、弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落跡があるのです。

 

吉野ヶ里遺跡は戦乱の場所だった?

(吉野ヶ里遺跡の外濠 出典:wikipedia

 

吉野ヶ里遺跡には何があるのか?

吉野ヶ里遺跡の最大の特徴は、そこが「邪馬台国」を彷彿とさせる資料がたくさんあるということです。

 

つまり、ここが邪馬台国であるということを裏付ける貴重な資料が豊富であるということです。

 

このことで、邪馬台国は九州だとする人たちが盛り上がり、先ほどの邪馬台国論争の再燃が巻き起こったのです。

 

ですが、今でも決着はつかず(恐らくつかないでしょうね^^;)、ロマンとして論争は続いていくのでしょう。

 

そして、もうひとつの特徴は、吉野ヶ里遺跡は、実は戦国のようなお城だったのではないか?という推測があるのです。

 

その根拠は、集落を大きく囲み、そこに深く掘られた堀があったこと、周辺の様子をくまなく見渡せる物見櫓があったことなどです。

 

村長が住んでいたと思われる大きな建物の周囲にも堀が掘られて、外敵の侵入を防ぐ作りになっていたそうです。

 

まさに、戦国のお城そのものじゃあないですか?^^

 

こうした軍事的な要塞として利用された痕跡が随所で発見されているのです。

 

ちなみに、この堀を巡らせた集落のことを、「環濠(かんごう)集落」と呼んでいますよ。

 

弥生時代は戦乱の時代だった?

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吉野ヶ里遺跡がお城だったとすると、当然、敵がいたはずです。

 

とすると、その敵とは戦っていたことになります。

 

その戦いによって敵から集落を守るため、要塞として、堀を掘ったり、物見櫓を作ったりしていたと思うので、それを考えると、戦があったことになりますね。^^

 

弥生時代は、のんびり稲作をしていたイメージからは程遠くなります。

 

武田信玄や上杉謙信のような、村長同士の戦いもあったのでしょうかね?

 

それを考えると、またまた歴史の常識が覆されます。

 

吉野ヶ里遺跡からは、歴代の王?と思われる人が埋葬された墓地も発見されていますよ。

 

古代史ファンにとっては、ますますロマンが募りますね。^^

 

吉野ヶ里遺跡はその後どうなった?

弥生時代が終わり、古墳時代に入ると、吉野ヶ里遺跡の集落は一気に姿を消したそうです。

 

堀には土器などが捨てられ、埋め尽くされたそうです。

 

理由は分かっていないそうですが、戦に敗れ滅んでしまったのか、それとも、なにかの目的で別な地へ移住したのか、謎が残りますね。

 

吉野ヶ里遺跡は、集落としての機能を失い、丘陵の上は前方後円墳などが築かれるようになったのです。

 

そして、人々は、生活の基盤を丘陵地帯から平野に移動していったのでした。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

今回は、吉野ヶ里遺跡を取り上げて、分かりやすくお伝えしてみました。

 

邪馬台国を彷彿とさせる吉野ヶ里遺跡。

 

本当に邪馬台国だったのか?

 

九州説のロマンですね。^^

 

また、弥生時代の戦とはどのようなものだったのか?

 

それもいずれ明らかになる時が来るのでしょうかね?

 

興味は尽きません。^^

 

それでは、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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