卑弥呼の死因は何?暗殺か?皆既日食との関係は?墓はどこ?
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謎の多い卑弥呼ですが、死因やその時期、そしてお墓も未だはっきりとしていません。
あくまでおおよその推測によるところが多いようですが、卑弥呼がそもそもヤマト王権の王だったのか、あるいはそれに近い人物だったのかも諸説がありすぎて、謎だらけです。^^;
大和朝廷とヤマト王権・ヤマト政権の違いは何?わかりやすく解説
まあ、それが卑弥呼っぽいのかもしれませんがね。
ですが、ここで終わっては元も子もないので(笑)
今回は、卑弥呼の死因とお墓について、諸説ある中からいくつか取り上げてご紹介していきましょう。
さらに謎が深まるかもしれませんけどね。(笑)
どうぞ、ごゆっくり。^^
目次
卑弥呼の死因は何?
卑弥呼が亡くなった理由とはどのようなものだったのでしょうか?
卑弥呼が亡くなったとされる根拠となるものが魏志倭人伝に記載されています。
しかし、肝心の死因がはっきりとは読み取れず、あくまで仮説となっているのです。
それでは、どういう仮説なのか見てみましょうね。
卑弥呼の死因説 その1 敵国の王に殺された?
卑弥呼が女王として君臨していた邪馬台国。
この邪馬台国と敵対していた最大の国が「狗奴国(くなこく)」です。
この狗奴国との争いの中、狗奴国の王に卑弥呼が殺されたとする説になります。
その根拠となるのが以下の文章です。
これは、魏志倭人伝の卑弥呼の死に関する記述になります。
本文は漢文で書かれているので、翻訳したものをwikipediaから転載させていただきます。
魏志倭人伝に記載されている卑弥呼の死に関する記述(抜粋ー翻訳)
(倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹椽史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ) に授け、檄文を作って諭した。して、卑弥呼は死んだ。死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された。 )
出典:wikipedia
この文章の赤い記載のところがポイントです。
「して、卑弥呼は死んだ。」とありますね。^^;
なにして?死んだの?となりますよね。
前後を見ても、良くわかりません。
なので、推測なのですね。
で、どう推測したかというと、「狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) 」に殺されたと解釈されたのです。
これが、死亡説のその1です。
余談ですが、卑弥弓呼って、卑弥呼と間違えやすいですよね。^^
ひみくことか、ひみこことか呼ばれているそうですよ。
卑弥呼の死因説 その2 死因は不明?
その1に関連しますが、先ほどの文章の「して、卑弥呼は死んだ。」の解釈が、不明だとする説です。
そもそも、邪馬台国の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼が敵対していて、いくさが続いていたそうですが、邪馬台国の情勢が劣勢になったので、魏の皇帝に助けを求めたのが、この文章の最初の部分です。
そして、魏の皇帝は、援軍を邪馬台国に差し向け、派遣された大将・張政は、卑弥呼の家臣・難升米(なしめ)に魏の皇帝の文書と旗印(黄幢・こうとう)を授け、難升米は、激を飛ばしたというのがザックリとした文章の内容です。
で?
ですよね。^^;
「して、卑弥呼は死んだ?」はあ?
というわけです。
つながりがわかんねーとなって、つまりは、なにかしらで既に卑弥呼は死んでいたのね。
となり、不明説となったわけですね。
なにかしら、病か何か、得意の「鬼道」が衰え、衰弱していったのかな?という感じですかね。
卑弥呼の死因説 その3 皆既日食での暗殺?
さらに、死因説のその3です。
今度は、先ほどとは全く異なり、鬼道(呪術のようなもの)を使い政治を行っていた卑弥呼の力が衰え、天変地異が起こったそうです。
西暦247年3月に九州北部(吉野ヶ里遺跡のあたりでしょうかね)で皆既日食が起こり、このとき、卑弥呼が亡くなったとする説なのです。
さらに、翌年の248年9月5日にも同じ場所で皆既日食が起こり、この年に、卑弥呼の後を継いだ男の王から、女子である・「壱与(いよ)」が卑弥呼の正式な後継者として女王に就任したとも伝わっています。
いずれにしても、247年~249年くらいまでが、卑弥呼が亡くなった時期とする説が有力なようですね。
卑弥呼のお墓はどこ?
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では、次に卑弥呼のお墓はどこなのかについて見てみましょうね。
先ほどの文章にもありましたが、「死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された。」とあります。
卑弥呼が亡くなったあとは、直径150mくらいの大きな塚が作られて、そこに家臣100人くらいも殉死し、一緒に埋葬されたことが書かれていますね。
ということは、古墳ですよね?
邪馬台国の近くの古墳が卑弥呼の墓だとする根拠となっているのです。
卑弥呼の墓説 その1 箸墓(はしはか)古墳
(箸墓古墳 出典:wikipedia)
まずは、邪馬台国が畿内にあったとする畿内説の場合、この「箸墓古墳」が卑弥呼の墓ではないかとする説です。
箸墓古墳は、奈良県桜井市箸中にある古墳で、「前方後円墳」の古墳です。
その根拠は、後円墳の直径が約150mで、築かれたのが3世紀後半のものだからだそうですよ。
卑弥呼の墓説 その2 平原遺跡
(平原遺跡 出典:wikipedia)
続いては、九州に邪馬台国があったとする九州説の場合だと、平原遺跡が卑弥呼の墓ではないかとする説です。
ちなみに、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は邪馬台国だったのではないかと騒がれている遺跡で有名なところですね。
平原遺跡は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡です。
ここが卑弥呼のお墓であるとする根拠は、古墳時代になる前の、弥生時代後期から晩期にかけて5つの墳丘墓(丘の上にある古墳のようなお墓)がある遺跡で、そこからは、「大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう)」が出土されたからだそうです。
この大型内行花文鏡とは、銅鏡の一種で、後に天皇家の証として代々受け継がれていく、「三種の神器」のひとつである「八咫鏡(やたのかがみ)」の前身の鏡なんだとか。
これが出土されたことで、この地は、古墳時代前後の王が眠っているのではないかということで、その時代にマッチした王が卑弥呼だったというわけなのでしょうね。
卑弥呼の墓説 その3 石塚山古墳
(石塚山古墳 出典:福岡県観光情報サイト)
九州説の場合、石塚山古墳も卑弥呼のお墓とされていますよ。
石塚山古墳は、福岡県京都郡苅田町にある、古墳時代前期の前方後円墳です。
江戸時代から発掘が行われ、銅鏡などの遺物が発掘されている九州最大の最古級の古墳ですね。
築かれたのが、3世紀後半の古墳時代前期であること、墳丘長が120m~130mくらいであることが、根拠となっているそうですよ。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、卑弥呼の死因やお墓の場所について、その諸説をご紹介してみました。
今回挙げた内容は、あくまで数ある中のほんのひとにぎりのものです。
まだまだ卑弥呼の謎は残りますね。
卑弥呼、ヤマト王権、古墳時代、それぞれの関係もまだまだ解明されないことがたくさんあるのでしょうね。
謎は深まるばかりです。
でも、これが古代ロマンなんでしょうね。^^
それでは、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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