大谷吉継と石田三成の関係は友情以上だった?そのエピソードとは?
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大谷吉継こと、大谷形部は、石田三成と唯一無二の友として有名ですね。
しかし、戦国時代においては、友情というものはあったのでしょうか?
まあ、ないとは言えないと思いますが、群雄割拠する戦国時代ですから、友情という横のつながりよりも、従うか従わせるかの縦のつながりを選択することが多かったのではないでしょうか?
そういう意味でも、大谷吉継と石田三成の関係は、珍しかったと思います。
ですので、二人は、「衆道」だと言われたりもしたのだと思いますね。^^;
では、その真偽はどうだったのでしょうか?
大谷吉継と石田三成のエピソードなどを見ながら、考えてみましょう。
どうぞ、最後まで、ごゆっくりお楽しみくださいね。^^
目次
大谷吉継と石田三成の親密すぎるエピソード
(大谷吉継 出典:wikipedia)
親密すぎるエピソード(その1)大谷吉継と石田三成の出身地や生年がほぼ同じ
大谷吉継が生まれた年は、永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとする説と、永禄8年(1565年)に生まれたとする説があります。近年では、後者の永禄8年が有力だそうです。
一方、石田三成は、永禄3年(1560年)に近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれたとされています。
まず、出身地については、どちらも、同じ近江ですね。
では、年齢差は、吉継が永禄2年(1559年)生まれの場合は、三成より1歳年上、永禄8年(1565年)の場合、5歳年下になります。
最初、永禄8年(1565年)説が有力としましたが、僕の考えでは、関ヶ原の際に、三成に諫言していることからすると、1歳年上の永禄2年(1559年)生まれとしたほうが自然な気がします。
ですので、僕の考えでは、永禄2年(1559年)説で考えてみますね。^^
親密すぎるエピソード(その2)大谷吉継と石田三成は同じ時期に秀吉の小姓からスタートした?
大谷吉継も石田三成も、ともに、秀吉の小姓からスタートしています。
小姓になった年は、はっきりしませんが、天正2年(1574年)前後と言われています。
そして、その頃は、織田信長も健在だったため、羽柴秀吉の小姓だったのです。
信長が中国攻めに秀吉を任命し、秀吉が毛利征伐に向かう軍中に、吉継は、馬廻り衆としての参戦し、三成も役どころは不明ですが、従軍していたそうです。
その後、信長が本能寺に倒れ、秀吉が宿敵・明智光秀を討ち、そして、いよいよ織田家の頂上決戦である「賤ヶ岳の戦い」では、大谷吉継、石田三成ともに、七本槍の活躍に継ぐ、先駈衆として活躍しました。
小姓時代から、ずっと、行動を共にしてきた二人なのです。^^
もちろん、他の秀吉恩顧のメンバーもいましたが、あるときには誰かがいなくて、誰かがいて、という感じだったようですので、ほぼ一緒に行動したのは、吉継と三成くらいだったのではないでしょうかね?
さすがに、行動をともにして、年代も同じで、出身も同じなら、話も合うし、気心もしれてくるでしょうね。
親密すぎるエピソード(その3)秀吉の有馬温泉湯治に二人が同行
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天正13年(1585年)7月に、秀吉が関白に就任します。
このとき、配下のもの12人ほどが同行したそうですが、その中にはもちろん、吉継と三成もいました。^^
このとき、吉継は、従五位下刑部少輔(通称:ぎょうぶ)、三成は、従五位下治部少輔(通称:じぶ)に叙任され、この頃から、「ぎょうぶ」と「じぶ」と呼ばれるようになったのです。
なんとも同じような位を授けてもらっていますよね。^^;
そして、さらに、秀吉が有馬温泉に湯治に行くにあたり、二人はもちろん同行したのでした。^^;
なんか、ここまでいくと、幼馴染がずっと一緒にいて、大きくなっていったという感じもしてきました。
ちなみに、吉継は、このころ、大谷刑部となったことをもって、家紋を「違い鷹の羽」から「対い蝶」に変更したそうですよ。^^
親密すぎるエピソード(その4)九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵でも一緒
島津を打ち破った九州征伐、北条を打ち破った小田原征伐、さらには、伊達政宗を膝まつかせた奥州仕置によって、秀吉は、とうとう天下を統一しました。
そして、これらにも、もちろん、二人は一緒(笑)
九州征伐では、三成配下で功績を挙げています。その後は、実務面でも、三成と助けながら毛利輝元のお世話などもしていたそうです。
小田原征伐でも、吉継と三成は、忍城攻略などでともに戦っていました。ちなみに、この忍城は、小田原征伐で唯一落城しなかった城として知られています。
映画「のぼうの城」の城ですよ。^^
そして、真田昌幸・信繁(幸村)もともに参戦していました。
吉継と信繁は、義理の親子ですからね。^^
さらには、朝鮮出兵のときも、奉行衆として、吉継、三成は増田長盛らとともに秀吉との連絡のため渡航したり、明との和平交渉をしたりしました。
どこまでも一緒なんですよね。^^;
親密すぎるエピソード(その5)お茶会
大坂城で開かれたお茶会に、秀吉恩顧の大名たちがお呼ばれしました。
このとき、茶碗に入ったお茶を一口飲んで、次の人に回していったのです。
しかし、吉継が口をつけたお茶は、後の人は、病気が移るのを怖がり、誰も口をつけず飲んだふりをしていたのです。
ですが、そこで、なにも気にせず、飲んだのが三成だったというエピソードです。
このとき、吉継は、ハンセン病だったと言われていて、吉継が茶を飲んだ時に、顔から膿が落ちて茶碗に入ったそうです。
そのため、後の人は、嫌がって誰も口を付けなかったのですが、三成は、何事もなかったかのようにゴクリと飲み干し、「とてもうまい!」と言って、おかわりを頼んだと言われています。
これには、吉継もどれほどうれしかったことか、三成の吉継への思いやりが伝わるエピソードですね。
ただ、一説には、三成ではなく、秀吉が飲んだと言われることもあります。その真偽は定かではありませんが、いずれにしても、吉継への労りが感じられるエピソードです。
大谷吉継と石田三成は衆道だった?
5つの親密すぎるエピソードをあげてきましたが、これらにより、大谷吉継と石田三成の友情は確かに芽生え、さらには、今で言う、「親友」のような気持ちがあったのではないかと推測します。
この親密さが、二人は、衆道だったのではないかとされるわけですが、実際には、なかったと思いますよ。
あるとする書籍もあるとは思いますが、僕は、あくまで、今で言う親友と同じ感じなのかなと思っています。同性の色恋沙汰にはならなかったと思います。
それは、大谷吉継という人物の懐の深さがあり、それに甘えていた石田三成がいたというだけの気がしますね。
まあ、あくまで個人の見解なので、真偽のほどは、本人たちにしかわからないと思いますが。^^;
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、大谷吉継と石田三成の関係の深さについて考察してみました。^^
一説には、お茶会で、三成が吉継の膿が入ったお茶を飲み干し、普通の人として接してくれたことに対して、吉継は、こいつと一緒に死のうと決めたそうです。
関ヶ原の戦いにおいて、上杉討伐で会津に行く途中、三成の息子「重家」を従軍させるため立ち寄りますが、三成から、ぜひ、味方について、家康を倒して欲しいと頼まれます。
このとき、吉継は、なにをバカなことを言ってるんだ、おまえじゃ、家康には勝てないぞ!と再三再四忠告したそうです。
ですが、三成の豊臣への忠義が本物で、本気で巨大な敵を討とうとしている、今こそ、おれがこいつと一緒に死ぬ時だと思ったそうです。
豊臣のためだけをいつも考えて、自分のことは考えてなかったのではないかと思えてしまう「石田三成」。その忠義が本物だと分かる大谷吉継だからこそ、負けるとわかっていた関ヶ原で三成とともに果てたのかなと思います。
男だね~^^
男が惚れる男。
やばい、三成も吉継に惚れていたのかな?
これは・・・。^^;
まあ、とりあえず、この辺にしておきましょうね。
では、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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